ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

全国転勤可能と銘打って採用をされた人材を、その言葉を信じ活躍の場を設けることが自分に課せられた仕事になる。
都市部での華やかな暮らし、馴染みある交友、環境的に不便のない生活など、自身の希望とする地域は人生において切って離せないものがあるだろう。


しかしながら、この業界分野事情として各地域に適切な就業環境が存在している訳ではなく、また取引先に限定すればより数は少なくなる。
この業界分野事情を選ぶのであれば、必然的に地域性の自由はなく、プライオリティを下げざるをえない。
だからこそ、「全国転勤可能」を採用基準として課すのである。


どんな理由であれ、全国転勤性とはいわば、万人にとってネガティブな一面である。鞭を与えるのであれば同時に飴を与えなければならない。
飴とはなにか、我々の場合は専門的分野への就業性だ。
高く障壁が構えられ、通常辿り着くことのできない領域へ参入できる。参入に際しいくつかの制限がかかるが、領域に自身が身を置けること自体が価値たらしめる、この領域はそういう世界なのだ。


夢見た世界への参入を片手に、自身の能力が求められる地域に何処へでも立ち向かう、そういうシナリオが必要なのだ。


だが実際はどうであろう。
「全国転勤可能性」の強制力が機能することはない。
人生を進める中で、家族を代表とする生活を目的とした地域性のプライオリティは上昇する。地域性の麻薬は心身を侵食し毒が至る。30代か、いやはや20代か、時期は不確定ながらも遠からず。


自分よりも、家族を、生活を優先する。このシナリオの儚い美しさたるや。いったい誰が責められるというのだろう。
「ライフワークバランス」の言葉が希求するその意味は、とても魅惑的な破壊なのだ。


なにかを批判したい訳ではない。
誰かを責め立てたい訳でもない。
ただの事実。


全国転勤可能性の総合職から地域限定の一般職への雇用契約変更に伴う給与形態の低下、それに伴う退職可能性の上昇。
そこを憐れみ忖度し、雇用契約変更手続きを経ず、実質地域限定性の、名ばかりの「全国転勤可能性」の薄っぺらさも。


拠点としての在籍の数字責任から、名ばかりの全国転勤可能性と実質地域限定性を自身に都合のいいように解釈し利用づける拠点責任者の傲慢さも。


採用の数字責任から、実質地域限定性の雇用契約での採用難を逃れるため、「全国転勤可能性」を形だけのものし、その場しのぎに特定の地域への就業をちらつかせ誘導する採用担当の脆弱さも。


すべては事実であり、どうだっていいことだ。それが現実に対する事業経営としてのマネジメントだと理解している。
美しさとは遠くかけ離れているとは強く思うが。


地域性は最上級の飴になのだと、改めて実感している。