ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

ライ麦畑の囚人の末路

三浦展が生み出した「ファスト風土」の監獄の呪縛に右往左往した経験の持ち主はごまんといるだろう。

「ここは退屈、迎えにきて」を、直後に「レディ・バード」を視聴して、この2つの作品には通ずるものがあるとして批評を兼ねて記録していく。

 

まずは前者、「ここは退屈、迎えにきて」についてだが、小説版を併読したがあとがきが秀逸であったため紹介する。

地域という要素を否定した登場人物達が終局的に地域性の権化たる存在に慰めを求め、結果否定されてしまうのは、これ以上ないほどに皮肉めいてるといった内容だった。

この作品の現状に満足できない登場人物達は、桃源郷を渋谷のスクランブル交差点に求め彷徨ったものの、他人任せに過ぎない紛い物に居場所を用意してくれる程過保護ではない現実に失望してしまう。

結局、田舎のはみ出しものが都会に出たところでなにも変わらないのだと遇らわれる。

他人に、環境に救いを求めなければ立っていられない彼らは、個として余りにも弱々しい現実から逃げ惑う他ないのだと、救いのない最後の台詞が語っている。

 

レディ・バード」は、規定の価値観とそれを強いる周囲の環境へ不満をもち、都会の華やかな暮らしを羨望する少女の物語だ。

ステレオタイプ的な思春期であり、呆れるくらい権威主義的で、自己評価と他者評価の乖離にはあまりにも傲慢で、その差異を埋めるために他人を利用し、田舎という環境を否定し、嘘をつくことも厭わない。

排他的で低劣かつ姑息。どれだけポジティブな表現を用いても、非常に弱々しい存在なのだ。

 

外部環境や他者の存在に、自身の空虚さのツケを負わせる姿からも、

「ここは退屈迎えにきて」と「レディ・バード」の主人公像は重なる領域が大きい。

設定の類似性はあるが展開は異なり、後者は環境や人間関係へ付与していた価値を逆転させ、借り物のレッテルが放つ呪縛から逃れることができた一方、前者は今も絡めたれられたままだ。

 

それは、全てをインチキと唱えたライ麦畑で捕まえての主人公の後ろ姿をも彷彿させる。彼もまた、ファスト風土的価値観に囚われた囚人の一人だった。

普遍的に一定存在するテーマであり、ネットが巣食う現代の、ファスト風土化から利便化する生活の中で、それはむしろ加速化しているのかもしれない。

 

「ここは退屈、迎えにきて」のロケ地が出生地の富山県だったのも理由の一つだろう。

自分自身、作中で語られるように、全国的な資本力が大きな箱モノやイオンモールを旗印にした躍進が展開されていたのは、このGWの帰省で確認できた。

どこまでも版で押されたように共通の生活が営めることとなった一方、何かを失っているといった曖昧な喪失感と虚無感が蝕んできたのは否定できるものではない。

 

この3つの作品、ホールデン・コールフィールドを起点にファスト風土的価値感に囚われた人間の展開の在り方として、「レディ・バード」と「ここは退屈、迎えにきて」をそれぞれ並列化できる。全てに否定の言葉を浴びせることで、自身を成り立たせていた彼ら彼女らの行く末の可能性を描いていたかのように感じられた。

 

後者には救いがある。再認識の機会を得た彼女は、−…もちろん生来の不器用さが困難を強いることになるだろうが、それでも都会で自身が捉えるクリエイティブな環境の下で活躍しながらも、田舎や家族との交流を絶やさず、バランスを保ちながら生きていけることだろう。或いは、田舎に戻り、お役所やら地元優良企業やら、かつて自身が蔑んでいた職業に誇りを感じて、二世帯住宅なんかも築きながら穏やかに生きてくのかもしれない。

どちらにせよ、センシティブではあるもののポジティブな要素を掴み取れることだろう。

 

しかし、前者はどうろう。

いつまでも劣等感の檻に囚われ続け終わらない復讐を選ぶのだろうか。ないしは、もう一度桃源郷を求めて彷徨い続けるのだろうか。どちらにせよ、救いはないのであろう。

 

自身はどちらに転ぶのだろうか。

同様に偏見的な価値観を更新できずに都内に出てきた自身はまだどちらの可能性も捨てきれずにいると思う。おそらく抱えた劣等感はまだ自分の中で解消されることはないのであろう。何かができるのではないだろうかと自惚れた自意識が捨てきれていないとしたら、とんだ笑い話だ。救えない劣情に駆られた自身の居場所を確定させたくないと現実逃避の手段に、贅沢にも飛びついただけなのかもしれない。

 

どちらを向いて歩くにしても、どこにでも広がるマクドナルドの看板に癒される程、今の自分は成熟の過程を完了できずにいるように自らを振り返った。