ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

雪景色と吉沢亮の横顔(「国宝」の感想文)

国宝の感想文をつらつらと。
 元々、危うげで儚いものに美しさを感じてしまうのは性癖みたいなものなのだろう。吉沢亮の破滅的な美しさに目を奪われてならなかった。

 かつての華やかな舞台とは格落ちした、誰のものと分からぬ披露宴での下卑た扱いにやりきれなさを覚え、ウイスキーを瓶のままラッパ飲みをして、心底呆れ果てた恋人から皮肉の追い討ちすら、まともに返すこともできず舞に興じるシーンは、この映画の白眉のひとつだ。
 洋画で多用される近視的なカメラワークを巧みに取り入れ、持たざるものの視点で物語は展開しており、白塗りの容姿や自暴自棄な舞踊の様は、ホアキン・フェニックス演じるJOKERを彷彿とさせるとの感想が目についた。事実、YouTubeでの舞台挨拶では、夜明けの限られた時間での撮影であり、森七菜の芝居を受けてのアドリブであったと語られたことも、拍車をかけているのだろう。
 これまでの芸ごととして巧みに造られた型の美へ研ぎ澄まされる過程から、抱える葛藤や抑えきれない承認欲求、芸への飢え、荒々しくもその魂だけを狂乱させた鮮やかで艶やかな舞いとのギャップに、彼自身そのものを魅せられたようで、目を離せなかった。

 吉沢亮演じる立花喜久雄は後の台詞で、見たい景色があったと語る。かつて見た雪景色は、かつて父が命を喪失した時節。人間国宝として名を馳せ、主人公たちに化け物と言わしめた田中泯演じる小野川万菊は、美しいものがないことに安堵すると呟く。喜久雄の見たかった景色は失うことでしか手に入れることのできなかったものなのではないか。壊れることでしか満たされない心に、果たして安堵はあるのだろうか。それは、美しさを感じてしまっている自分たちにもブーメランとして返ってくる刃だ。壊れた後に築けるものなんてあるのだろうか。

 血と芸についてを題材に取り扱った作品だ。監督自身の在日朝鮮人としての人生が強く反映され、日本人なのか朝鮮人なのか、自身のアイデンティティへの疑問を当てはめているからこそ、説得力を強めているとのコメントが散見された。コンプレックスだけにモチベーションがあるのかは甚だ疑わしいけれども、これまでの作品群から見ても、彼の関心事項は、肯定できない自分自身と社会への折り合いのつけれなさにあるように感じる。それを、壊れ方に感じさせたい作家性のように思えた。「怒り」を見た時に感じたざわめきは、壊れてしまった後にしかわからない音色のことだったのかもしれない。そんな風に思えた。

 まるで別れ話から切り出して本音を確かめたいメンヘラ女のようだな、と気づいて浅すぎて苦笑している自分がいた。

 

鞄持ち

求職者を支援する立場から、社会との連携の一部もしくは送り出しする役回りの一環として、企業と面談し現場の採用活動の内側やら、市場を観察する業務を行っている。


もともとが採用活動に関わる人材業としてのキャリアを築いていたこともあり、おあつらえむきとでもいえる役回りではあるのだろう。

もしくは、今所属している法人それ自体が自分が老いぼれるまで存続してるとは、到底思えないくらいの有様だということも、腹では抱えて、現在のこの地域のこの市場はどういった具合なのだろうと知っておきたい利己的な思いも相まって、その役回りを引き受けている一面もある。


とはいえ公的でありえる組織の、その一員として特定の団体へ価値基準を示すのに、自分の価値基準だけ照らし合わせて判断を下すのは如何なものかと、躊躇いは付き纏う。

 


いろんな前置きを脇に置いて、いまモヤモヤさせていることは、人事として採用活動の一環に赴いた責任者が、しっかり若手に鞄持ちさせていたことだ。


人様の組織の風情にどうのと口を挟むのは無粋だとは思うが、仮にも自分が関わった人間が、その環境に身を置くかもしれないとなれば、他人事と済ませるのも無責任のようにも感じる、よく分からない立場にある。


ちなみに、検索かけてみると、ごく一部に、鞄持ちにもメリットがあり上司の仕事を間近で見れることで経験できるのだとかいう都合の良いコラムがあった。まぁお前らはそういうだろうなくらいの感慨しか浮かばない。反対意見で多くは占めていた。


個人的な偏見もまじえれば、「うわっ、飲み会で酌しないとマジでキレてきそう、ダルっ」と、そこに身を置きたくはないなと思えるだけの自己防衛感は働かせるけれども、いやいやそれくらい当たり前っすよ、みたいな運動部ノリがあるのも分かる。何か正しいというよりも、自分か馴染めるか否かぐらいで終わる話だ。


鞄持ちの風景だけならそれで留まる下らない話でオチがくる。

 

 


腑に落ちてないのが、鞄持ちされてるその若手と目が合ってしまったことだ。苦笑いで逃げるようにその場を逃れていったこだ。


なんだその、頼むから見てくれんな、とでも言わんようなしみったれたツラは。


完全に自分の感じ取ったものだけを基準値において考えてみる。

①まるっきり俺の気のせい。勘違い。考えすぎ。その若手はめっちゃハッピーにやってる。

②鞄持ちのドン引き文化を利用しながら上に駆け上がっていくサクセスストーリーの真っ只中。

③諦観してるくせにプライド捨てれない系。

 


の大きく3パターンなんかなぐらいにイメージした。救えないのが1ケースある

(よく考えたら、②ならそのツラみせた時点でアウト、もっと腹の底から演じきらんかい)。 

 


仮にも採用活動の一環としての行脚にそのノリを持ち出すなら、イメージ戦略として誤っているし、そのリスクマネジメントすらできないないのは、ガバメントとしてお粗末というのは脇に置く。

仮に鞄置きのポジティブな面を評価しての風習だというのなら、若手にそのツラさせるだけの隙を見せてしまった時点で、腹落ちさせられてない教育の落ち度なのも脇に置く。

 


いろんなものを脇に置いてしまっても、そのツラさせてしまってもいい面を、頑張って捉えるのは、とても難しいように思えた。


別にその企業だけが特別なわけではない。クローズドな空間で、ユニークな文化が、さして検証もされないまま育まれてしまうことは、致し方ないものだと思う。その歴史を知らずに迷い込んで、よく分からない地雷でステップして怪我することもままあると思う。田舎あるある。よくある話だ。

 

ただ、よくある話というだけで、バグはバグだ。

 

非常に面倒な話で、自分の団体もwikiにすら散々叩かれてるご機嫌な文化を保有してる。一応は解決した体を装いながら、その実ちゃんと居座っているキモい諸悪の根源オッサンどもに、あれこれいうのも面倒だから口をつぐむスタンスが楽というのは肌感覚でわかっているのだけれども。まぁその若手の気持ちもそんな具合なのだろう。

 

とはいえ、思い込みでジャッジするのは控えようかしら、という枕詞はあったけど、バグってるものにバグってるって切り捨てないと、進歩もないなと開き直りに思い当たった次第です。

 

ということで、つまらんオチでしめると、鞄持ち文化はウンコ。

地震①

 2024年1月1日、能登半島を中心とした大地震が日本を襲った。今回深刻な被害を被った志賀町輪島市珠洲市穴水町七尾市は2007年にもマグニチュード6.9、いわゆる能登半島沖地震が発生しており、このエリアをなぞるように活断層が広がっているという。原因について、流体の存在が騒がれ、はたまた人工地震陰謀論が囁かれ、究明にされないまま被害は今もなお深刻化を止められずにいる。同時期には不幸な事故として羽田空港の衝突事故が生じ、挙句の果てには無用な争いまでもが徒に相次ぐ混乱へ落としめられた。

 

 個人の話をするならば、地震が生じた同日16時前後には、他県から訪れた友人と共にスーパー銭湯に赴き、しがない近況報告や思い出話に明け暮れ、湯船からサウナ、岩盤浴とふけり、畳のフードコートで昼食を終えた最中だった。考えられる最大限の御気楽でリラックスした雰囲気からも、液晶の端に映る北部エリアの地震予告にも、遠くの出来事とまさに油断していた心境に反し、徐々に激しさを増す振動に度肝を冷やした。そんな状況だった。

 一番興味深かったのが、自分が経験したことのないような大地の揺れを前にしても、生存への選択にきちんとしがみつけない、そんな人間の態度だった。それは僕自身も例外ではない。周囲を見渡してもローテーブルしかなかったという言い訳はあれど、棒立ちでその場を動くことができなかった。静まりかえってようやく、何が起こったんだとテレビの前に駆けつけて、段々と事態の把握に処理が追いついたくらいだ。アナウンサーは画面越しに津波の危険が示唆し、逃げるための行動を促そうと懸命に呼び掛けていた。緊張から生じる身体の動悸なのか、実際の大地の揺れなのか、自分だけではどうにも分からないような緊迫感に襲われるなかで、どうしようもなく冷静にいられないまま、浴室では徐に浴場へ赴く方から、喫煙を始める方まで、その落ち着きのなさはあまりに現実味を欠いていて、皮肉なことにその事態がより深刻さを露わにしていたように思う。移動のための手段がない友人はこのまま行動を共に、そんな予定のなかった我が家に迎え入れられ、まったく喉を通らないお節料理を前に、上手く立ち振るえないでいる羽目になった(これはこれでいい話なんだけれども)。

 

 カレンダーの妙による僥倖ともとれた長期休暇を、そのまま無作為にスマッシュ速度で崩壊させてくれては仕事は始まり、敷地内の安全確認や復旧作業に勤しむ予定外の幕開けとなった。親族が亡くなった、家屋が崩壊した、孤立状態に陥った、避難所生活の物産の相談、救援対応に夜も帰れない、そんな話題が飛び交った。「本当に危ない時って、人間冷静にいられるもんじゃないですよね、実はその時温泉入ってて…」「いや実は県外から来てる友人を匿ってたんですよ、それでね…」という具合に笑い話で消化しよう、なんなら少し盛るならどこだろうかと思案していたけれども、冗談でオチをつけられないような沈み込むような暗澹が漂っており、そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなった。そんな被害を受けている同僚を前にして、まったくおかしく、頓珍漢だけれども、大した被害を受けずに済んだ自分が情けなくなった。いみじくもオフラインおばさんと内心揶揄していた担当者から、様々な負の感情が色んな形で醸造されてしまうことが本当の意味での災害で不幸なのだと囁かれた。悪意がこれ以上蔓延しないよう努めるのが、ここにいる私たちの役割なのだと。

 

 東北、熊本など他の地震とは異なる様相を示し更なる警戒は必要だと専門家は喧伝する。1時間おきに地震速報を更新しては地震と自身の錯覚の差異を埋め合わせる。ネットの魑魅魍魎に煮え切らない感情をぶつけあわせる。現実では何事もなかったよう笑みを浮かべる。請求書や締切など事務処理の現実的な対応に頭を悩ます。いつも以上に家族とコンタクトを取る。無神経なラインには震災地マウントを取っては被害者ぶる。どれだけでも麻痺していて、それでもなお懸命に。そんな非日常が自分の置かれている環境なのだと、それを改めて実感しつつ、今なお地震速報の画面を更新している。

熱狂について/『推し、燃ゆ』(宇佐美りん 著)の読書感想文

 唐突ではあるが、あらゆるフレーズ何においても、「この言葉は私のために書かれたものだ」なんて具合に、熱狂する気持ちに陥いれたことがない。

 

 物語は一定の共感性や没入感を味わうものとされるが、特にその傾向が激しいとされる作品やアーティストは存在している気がする。太宰治やJ.D.サリンジャー庵野秀明(エヴァンゲリオン)の作品、もしくはアーティストではBUMP OF CHICKENMr.Children、変わり種であれば漫画家の浅野いにお等、30代男性世代であれば代表的な対象のように思う。勿論、今回読書感想文として取り扱う『推し、燃ゆ』の作品にて、主人公が手を伸ばしているアイドルという存在もそうだろう。大学時代にはポップな趣味としてライトな層からコアな層まで、グラデーションに富みながら偏在していた。苦言を零すなら、多くは学生の身分と一緒にその趣味も投げ捨てたように思えるけれども。

 

 心酔した彼ら彼女らは偏愛を向ける対象へ語らうシュチュエーションでは、時には不理解が当たり前とされても、その神聖さには一切の躊躇いも疑問もないように触れる。自己満足で留まるものもいれば、排他的で乱暴なものまで、様々だ。ネットスラングに語彙を借りれば、まさに信仰しているように見受けられる。

 

 共感力やら同情力、詰まるところ他人の気持ちを汲み取ることが得意とはいえない僕にとっても、特定の文言へ、納得させられたり今の心情に刺さるものに、笑ったり泣いたりといったと喜怒哀楽を見せることや、安い表現を用いればエモい情景へ、付箋を貼ってみたり、ノートに書き写してみたりくらいはする。その行為だけを抜き出してみれば、他の大多数よりコミットしているような気はするけれども、神聖視するような域に達した経験はない。それこそアーティスト(アイドル)のライブなんかは、友人の誘いで、かつ近隣で、それもたまたまチケットがあたりでもしない限り、赴こうとも思わない。興味の対象が特定の人物に向いておらず、ベクトルが異なるだけで、他のジャンルには同量の熱量を持ち出せるのではないか、という疑問もあるが、思考を寄せてみても該当するものは思いつけない。単純に冷めた人間なんだろうか、それとも人生経験が浅すぎてその対象物に出会えてないだけなのだろうか、いずれにせよ少し寂しくも思うわけだけれども。

 

 そんな僕はこの謎めいたベクトルの持ちようへ解消するように偏愛する彼ら彼女らへ疑問を持ちかけてはみても、腹に落ちた回答を掴めたという経験はなく、分からず終いだ。対象物をアイドルやアーティストに限定すれば共感性は低いかもしれないが、わかりやすくいえば野球球団であっても同じことが言える。たぶん彼ら彼女らの言葉は僕に理解できるものではないのだろうし、僕は性格がきちんと悪いので、彼ら彼女らの態度を受け取り、「ハハン、コイツらはそうやって勘違いしようとしているだけなのだ。馬鹿どもめ」と冷笑系スタイルを、少なからずキメこんで切り捨てがちだ。なんならその感情は相手にも漏れ伝わっていたことだろう。自分には理解できないものを馬鹿と決め込む馬鹿のブーメランはなかなか救えたものじゃない。

 

 とはいえ『推し、燃ゆ』はその混濁した傾倒へ、不穏な結末を用意し、主人公は自らを追い込んでいく。周囲は憔悴した主人公へ心配を投げかけるも、それを意に介さないまま、(客観的表現で表せば)暴走を維持する。果たして、彼女はそれでも幸せだったのだろうか。心酔した過去がない自分には計り知れない。

 

 とても詰まらないオチをつけるなら、「時に熱狂は視野を狭くし選択を曇らせる」とでもいえば満足するのかも分からないが、そんな広告文句みたいなフレーズはどうでもいい。肝心なのは、見栄えの良い代物ではないにせよ、その他を蔑ろにしてまでも向かい続ける、ひたむきすぎる想いそれ自体が、生身の身体に宿りうるということなのだ。熱狂の存在。そんな単純な事実が、様々なジャンルへ様々な形で存在し、カオスになっているのが僕達の世界なのだということなのだろう。宗教であれ、政治であれ、野球であれ、作品であれ、アーティストであれ、アイドルであれ。ほんとうになんであれ。きっと、彼ら彼女らに言わせてみれば、どうしようもないことなのだろう。

 

 うってかわって被災地の現在。2024年1月1日以降、断続的な大地の震えにも慣れてしまった非日常。長期休暇も相俟ってなにかできることはないかと思いながらも、特にできることがあるわけでもなく、不謹慎圧力に屈した訳ではないけれども、とはいえいつでも何らかの対応ができるように構えていなければいけない緊張感を強いられながら、スケジュール的にはなんならいつも以上に退屈な日々を送っている。21世紀の暇潰しの代表作、Xもとい旧Twitterを覗いてみれば、こんな最中でも健気にフェイクニュースでインプレッション数を稼ごうとするロクな死に方をしなさそうな阿呆や、科学的に論破されようとも人工地震を語る陰謀論者から、震災に乗じた性的被害を糾弾するフェミニストへ、(後者に至っては僕自身の性別が男性ではあるポジショニングもあるので傲慢かもしれないが、) 被災地に身を置く立場からすれば、お前らはいったい何と戦っているんだと感じた。

 

 そんな、僕からすればズレてる物言いに対しても、賞賛のトークラリーが延々と気色悪くも続く様へ、お得意の性格の悪さから、やはりコイツらは全員馬鹿なんだと思えてしまった。少しは脳みそ使って考えろよと。しかしながら、同時に考えもした。彼ら彼女らはなにかに取り憑かれたように熱狂しているのだと。その熱に浮かされては放されずに蠢いてしまっているのだ。それはもうどうしようもないことなんだ。それは時に現実を置き去りにしてでも彼ら彼女らにとっては大事なことなんだろうと。

 


 そんな徒然でした。

「家族。」

祖父がこの世を去った。


 祖父は元々重度の肺がんを患い、またコロナやその他の合併症が発生し、2022年10月に自宅で不意に転倒したことを転機に入院が続いていた。元々医療機関にかかるのを可能以上に避けていたために症状は手遅れの域に達していた。最初は市立病院での入院となってはいたが、2つ3つと転院を繰り返した。最後に辿り着いた施設は古めかしい建築物で、おそらく学校施設を改築したであろう造りとなっており、手すりやエレベーターなど、病院機能に必要な装備を後付けで付け足したようなしろものだった。入居している患者は皆例外なく、干からび、人工呼吸器を付けた口を開け、流れるテレビ画面とは正反対に顔を向け、寝崩していた。自律的な生命維持を図れず、機械に身体を支えられているその様は、語弊を恐れずに言語化すれば、「生かされている」人間達だった。祖父はその一角に佇まっていた。


 医師より、祖父の心拍数や脈拍の減少からいよいよ最期の時期なのではないかと伝えられ、帰省を果たした。その場には、祖父の娘息子である姉となる母と、叔父の2人が集った。コロナウイルスのための制限から、2名ずつの面談となり、先ずは僕と母で祖父との面談となった。祖父はこけたように痩せ衰え、骸骨を浮き彫りにさせたような皮膚に身を宿し、口を呆けたように開いたまま、寝転んでいた。看護師の呼びかけもあり、瞑った目を見開いて、声にならないまま口を辛うじて動かしていた。弟に子供が産まれたこと、転職を検討して地元に戻るかもしれないこと、一方的に近況報告をしてその場を去った。叔父2人の面談も終わり、祖父母の家に戻ると、祖母も続けていた癌治療を辞めたと伝えられた。迫り来る副作用にもう体力がついていかないのだという。家から出ることもままならず、日に20時間の睡眠と、遠くなった耳、抜け落ちる毛髪やらなんやらに嫌気がさして、生きる気力のようなものが既に失われているような言葉を溢していた。どうにか振り絞るように祖父を残して先立つことは避けたいと謳った祖母を後にし、帰路にたとうという最中、病院から危篤の連絡が去来した。


 病院に辿り着くと、駆けつけた医師から最後の診察ですと述べられた。耳の遠くなった祖母にはその言葉は伝わらない。機械的に心拍を図り、脈拍を調べ、網膜に光を当てた。


「15時34分、死亡を確認しました」


本能的に感じ取ったのであろう祖母が泣き崩れた。自立することも難しい両脚が椅子から離れたが、頼りなく膝を地面に打たせた。看護婦からは手をとってあげてくださいと告げられたが、僕らは見守る他なかった。

 


続く

エモさとはなんであろうか。

エモい。こんな言葉にもWikipediaページが存在しており、その概要を覗くとエモーショナル、えもいわれぬといった感情を示す言葉と定義されているようだ。僕の理解では状況や状態に対して共感し、肯定的な意見を主張する際に、感想に困ると使用できる容易な単語として市民権を得ているように思う。自身もエモいエモいと多様することで安さに身を置くことを許している。が、いったいどういうシチュエーションにその言葉を形容しているのか少し定義づけてみたい。題材は最も適材と思われる進撃の巨人を取り扱う。


簡単な概要も兼ねて、作品内にてエモいと思われるシーンについて羅列していく。前提を共有しないことには語れないため、ネタバレにはご注意を。


①前提の世界観

(壁内)

あらゆるメディアで露呈し続けているため詳細の説明は野暮なので割愛。人間を食らう目的不明の巨人のために狭く囲われた壁の中に追いやられた環境の下で、人類の為にと声高々に討伐し壁の外へ自由を求めんとする主人公。犠牲を払いながらも辿り着いた真実は、自分たちこそが人間を食らう巨人であり、巨人に向けた憎悪はそのまま、壁の外の世界から自分達へ向けられるものだったという残酷さだった。彼らにとって、かつて唱えた人類の為にという言葉は、皮肉な呪いとして壁の外の世界の感情を受け止める他なかった。


(壁外)

巨人となれる壁内人類を利用し、かつ壁外人類にとっての仮想敵として連帯を図る為にも、壁外人類はかつての贖罪の為に貢献し続けなければいけないという物語を土台とし価値観が構成されていた。巨人になれる壁内人類は罪深く穢れた存在であり、救いの道は戦争のなかで戦果を上げることでしかない。それはすでに組み込まれた摂理として争うことはおろか、疑いの目をむけることすら憚れるほどの文化のなかで、互いを憎しみあうことでしか自らの価値を認められずにいた。


②おりあわない世界の中で

巨人になれる人類(エルディア人)は2通り存在する。

a)壁内には主人公側の、世界の憎悪を向けられる真実を知るも生存を願う存在。

b)壁外では上記の贖罪の道を求められ、だからこそ身勝手な壁内の同族の殲滅を目論む。

同じ人種にはなれど、道を違えた二者間では、物理的距離、もしくは歴史的対立から対話は存在できない。


③それぞれの立場を持って

双方を理解しながらも自身の大切なものを優先する者

b)に属するライナー、ベルベルト、アニの3名は、偵察および殲滅のためにa)の壁内環境に忍び込む。彼らの生活に身を馴染ませ、彼らが決して身勝手な存在ではないのだと気付かされる。しかしながら境遇を知った上で、彼らは強いられた命、つまるところ壁内人類を殲滅するという残虐行為を選択する。その行為が導き出すものは、愛する者を失う、彼らの生活を破壊する、憎しみの連続他ならないのとだというのはの承知の上で。それでもその選択をしなければいけないことは、ライナー、ベルベルト、アニ達にとっても守らねばならないものがあるからだ。

 

『私には…帰りを待つ父親がいる。そして…私と同じように、他の人にも大事な人がいる…。もうすべてがどうでもいいと思わない。私はこれまでに取り返しのつかない罪を犯したと思っている。…。でも、父の元へ帰るためなら、また同じことをやる。』

講談社諫山創 著「進撃の巨人」31巻

それを受け止めた友人は状況を見渡しながら零していく。

『そっか。それが聞けてよかった…。でも…あんたが父親の元に帰っても、瓦礫と死体のしかないと思う。』『…。…そうね。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」31巻


互いの状況が理解できたとて、大切なものが異なり双方を選べないからこそ、傷つけてでも幸せを願ってしまう。折り合わない世界が心苦しい。

 

双方の立場を分からず知ろうとしないまま、自身の主張のみを貫こうとする者

ガビというキャラクターは、b)の巨人になれる壁外に身を置き、贖罪の物語を信奉していた。世界がそれを求め、自身もそれに準じる。読者はあくまでa)主人公の壁内人類側の視点で物語を眺めているため、感情移入はしづらく、なんとも愚かな存在として視点誘導される。その過程でa)の壁内人類の重要人物を殺めてしまう。その父親を前にして。

『ッ…!!目を覚ましてれ!あなたはマーレの兵士でしょ!あなたは きっとその悪魔の女に惑わされてる!!悪魔なんかに負けないで!!』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」28巻

なんとも残酷で配慮のない言葉をいってのけたが、父親はガビを許す。徐々にa)の世界を理解していく、しかし過去がなくなったわけではなく、後戻りできない状況に苦しむこととなる。

『どうしてお姉ちゃんを殺したやつのことなんか…心配するの?私は許さない。殺してやりたい。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」29巻

この率直な憎しみに涙を流しながら吐露していく。

『悪魔なんていなかった…。この島には…人がいるだけ。やっと…ライナーの気持ちがわかった…。私達は…みたわけでもない人達を、全員、悪魔だと決めつけて、飛行船に…乗り込んで…ずっと同じことを…ずっと同じことを繰り返してる…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」29巻

 

気付いてしまったからこそ、自身に強いられた文化や先入観へ抗うことの苦しさと、自分が行ったことへの懺悔が、これまでの人生を否定する。


双方の立場を理解してし、背負生きれない者

スパイとして身を潜めたライナーは、同期となる主人公へ取り入り、裏切り、壁を破壊し、母を殺し、多くのb)壁内人類を蹂躙を尽くした。その事実を知った主人公は激昂し、憎悪の限りを彼にぶつける。しかしながら彼自身もその残虐性を理解しており、迫り来る罪悪感に耐えきれず精神を分裂し、あるいは自害を試みる。自身を肯定できないまま、時は過ぎ、主人公との再会を果たす。自身への恨みを果たされるものと覚悟していたが、かつての過激な性質な様は見てとれず、ただ冷淡に対談の火を囲む。

 

『だが俺にもお前達が悪者に見えた。あの日…、壁が破られ俺の故郷は巨人に蹂躙され、目の前で母親が巨人に喰われた。あの日から…どうして何もしてない人達があんな目に遭って…大勢の人が食い殺されてしまったのか…俺には分からなかったんだ。なぜだ?ライナー、なんで母さんはあの日巨人に食われた?』

『…それは、俺たちがあの日…壁を破壊したからだ…』

『なぜ壁を破壊した?』

『…任務に従い、混乱に乗じて壁内に侵入し…壁の王の出方を窺うために…』

『その任務とは?』

『…始祖を奪還し、世界を救うことが目的…だった…,』

『…そうか。世界を救うためか…。世界を救うためだったら、そりゃあ、仕方ないよなぁ…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

 


どちらかの意見を優先することなく、ただ事実整理かのように慎重に言葉を並べる。


『確かに俺は…海の向こう側にあるものすべてが敵に見えた。そして…海を渡って、敵と同じ屋根の下で、敵と同じ飯を食った…。ライナー…、お前と同じだよ…。もちろんムカつく奴もいるし、いい奴もいる。海の外も、壁の中も、同じなんだ。だがお前達は、壁の中にいる奴らは自分達とは違うものだと教えられた。悪魔だと、お前ら大陸のエルディア人や世界の人々を脅かす悪魔があの壁の中にいると…。まだ何も知らない子供が…、何も知らない大人から、そう叩き込まれた。…いったいなにができたよ。子供だったお前が、その環境と、歴史を相手に。なぁ…?ライナー、お前…ずっと苦しかっただろ?今のオレには、それがわかると思う…。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

歩み寄る主人公に対し、ライナーは内心に嘘は貼り付けられず、誰にも明かすことの出来なかった真実を吐露する。

 

『違う!!』

『違うんだエレン…(中略)。オレは英雄になりたかった…!!お前らに兄貴面して気取ったのもそうだ。誰かに尊敬されたかったから…あれは…時代や環境のせいじゃなくて…オレが悪いんだよ。お前の母親が巨人に喰われたのは俺のせいだ!!もう…嫌なんだ、自分が…。俺を…殺してくれ…。もう…消えたい…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

この言葉を吐いた背景には、彼の脳裏にはこびりついて離してくれない記憶が存在している。

『…ずっと、同じ夢を見るんだ。開拓地で首を吊ったおじさんの夢だ。なんで首をくくる前に僕達にあんな話をしたんだろうって…。』

『誰かに許して欲しかったんでしょ』(中略)

『僕は…なぜかこう思うんだ。あのおじさんは…誰かに–、裁いて欲しかったんじゃないかな』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

どれだけでも綺麗な建前を並べてはいたが、結局は自分が可愛くて、自分が憎らしい、そんな自己肯定の弱さのために行動を起こしてしまった愚かさを悔いる。逃れられない主観性に苦しんで、それでもあの時の行動を変えることはできなかったのだろう。主人公がこれから歩む道は自身の大切なもののために世界を犠牲にするといった、かつてライナーが歩んだ道のりだ。客観的に自分達の破滅こそが、世界が望んでやまないものだとわかっていたとしても、自分達の幸せを望んで諦めることができない。その愚かしさを背負うことを、自分を唯一理解してくれるだろう、ライナーと腹を割って話すことで覚悟を決める。

 

理解しえないもの、理解したとて自身の大切なものを選ぶもの、理解してなお背負いきれないもの、各々が各々の苦悩を抱えて行動を選択する。全肯定されるものではなく、非難を避けて通れるものでもなく、それでいてどうしようもないもの。その基準値は、身に置かれた世界や文化、価値観、そこから培った経験なのだろう。経験がより解像度深める一方で、経験があるからこそ妥協できない、視野が狭まるジレンマはあるんだと思う。一般論的には経験こそが尊いものだと謳われる一方で、狭量な世界へ閉鎖する愚鈍さを導き出してしまうが、それは決して否定されるものではない。経験こそが主観を構築してしまい、それは客観を凌駕するもの足り得てしまう。

 客観性を帯びて説教じみた傍観者の立場に甘んじればどれだけか生きやすいのだろうけれども、そんな卑怯なスタンスは、つまるところ面白くないのだ。正しさの基準値から外れていて否定はされても肯定されない、逃れようのない主観性と、その副産物としての苦しみ。これが僕が考えるエモさだ。

強さでの連帯感は瞬間的な熱狂に支持されて酷く脆く、客観で協調されたものはただの論理的整合性でしかなく、弱さで分かち合うことでしか繋がれないのが人間なような気がする。一見アホと呼ばれても、それがその人らしさであって、生きるということなのだろうなぁと思って愛でる訳です。あまり伝わった気がしないなぁ。

情けないリリーフランキーの足取りを見て

 

 万引き家族を垂れ流しながら。

 

 祖父が危篤状態に陥った。危篤と言っていいのか、正式な判断は分からないのが実態ではあるのだが。86歳を迎える祖父は、かつて癌診断を受けたものの治療を拒み、施設へ預けられることも、更なる医療機関に診断されることも拒み、煙草を吸い、ウイスキーを嗜む道を選んだ。存命の祖母も、または僕自身の母親を含んだ3人の息子娘も、その態度に自業自得だと厳しい意見で訝しみ、せめてと医師の訪問だけは祖父に妥協させた。その最中、おそらくトイレへ足を運んでいたであろう祖父が廊下に倒れて意識が戻らなかった。その姿を見かけて呼びつけた医師から処置を受けた。医療機関に精密な検査を施されているわけでもないから詳しいことは分からず医師の中でも推測の域は超えないのだと前置きはあれど、あと1週間が山場なのだと告げられた。山場という言葉は峠と誤って使用した単語だろうと茶化するくらいの余裕は見せれるだけ、覚悟は決まってはいたのが祖母以外の正直な感想だった。それだけ医療機関へ頼ることを避ける祖父の態度に手を焼いていたのだろうと予測できた。

 


 祖母は癌の宣告を受けていた。耳も遠くなり、また足の指の先も痺れて上手く生活することが困難になっているのだと嘆いていた。祖父とは対照的に、定期的に医療機関にかかってはいるものの、その経路までの負担や、診察までの待ち時間にかかるストレスに圧迫感を覚え、また自身より先に旅立つ知人への淋しさにしんどさを感じていた。どうしてこんなしんどい思いをしてまで生きなければいけないのだと頭を悩ませていたのを目にして、その正直な姿に当てられた。

 母方の家系はどちらかというと内向きなエリートもしくは安定思考の性格を有していたように思う。叔父にあたる男性はかつて脚本家を目指していたが挫折し、今は実家で過ごしている。今では工事現場で計測の仕事に就いているが、県内でも有数の高校へ進み、名の通る大学へ歩んだ彼も、望んだような人生ではないのだろうと、祖母から発せられた。または祖父も診察を拒むのは自身が下手に長らえた場合に残される親族を思ってのことなのかもしれないとも呟いた。決して仲の良い祖父と叔父の関係性ではなかった。それぞれの家庭を持った他の息子娘達の自立はともあれ、その2人を繋ぐためにも、癌を背負い生にポジティブな感情を抱けずとも、生きなければいけないのだと言葉を紡いだ祖母を見て、さまざまな意味で、一体何を返していいのか分からなくなった。

 


 漏れなく自身の家族も母親が支柱となっているように思う。そして重ねるように、母親も癌を患ってしまった。月に一度、帰省するようになり、食事に出かけたり買い物に出かけたり、こないだはスタバで季節物のラテを愉しむようになった。母親の話は他でもしたので避けるけれども、やはり彼女がいなければ弟も父親もうまく有機的に結びつかないように思える。それだけ存在感のある役割になっているし、それだけ有難い気持ちは天井なんて飛び抜けて感じるのだ。だけれども、同じものが祖母に、責任感となってのしかかるのだとしたら、それは果たして…、果たしての続きに適切な言葉が思い浮かべられず、喉の奥に引っかかっては拭えない。

 


 家族の在り方は十人十色、多種多様だとは思うし、祖母の在り方は尊敬すべきだし誰かに何かを言われるいわれのないものだ。でも、だけれども、これでいいんだろうかと思っている自分がいるのは否定できない。だからとはいえ、どうすればいいのかもわからない。ただ、疑問として自分に残っている。

 どこかになにかを求めようと是枝裕和監督作品を見返しても、明確な解答は与えてはくれない。これだけが答えなのだとぬるいものを与えられるよりマシなのだけれど、地図もコンパスも頼りない今を救ってくれるものへ縋らせてくれない。要素ばかり増えて、いつまでも、最終的に判断する自分からだけは逃げさせてくれない。流されるだけの立場は終わったのだと、30年の歳月で語ってきた。ようやく、自分のアラサーが始まったように思った。