ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

熱狂について/『推し、燃ゆ』(宇佐美りん 著)の読書感想文

 唐突ではあるが、あらゆるフレーズ何においても、「この言葉は私のために書かれたものだ」なんて具合に、熱狂する気持ちに陥いれたことがない。

 

 物語は一定の共感性や没入感を味わうものとされるが、特にその傾向が激しいとされる作品やアーティストは存在している気がする。太宰治やJ.D.サリンジャー庵野秀明(エヴァンゲリオン)の作品、もしくはアーティストではBUMP OF CHICKENMr.Children、変わり種であれば漫画家の浅野いにお等、30代男性世代であれば代表的な対象のように思う。勿論、今回読書感想文として取り扱う『推し、燃ゆ』の作品にて、主人公が手を伸ばしているアイドルという存在もそうだろう。大学時代にはポップな趣味としてライトな層からコアな層まで、グラデーションに富みながら偏在していた。苦言を零すなら、多くは学生の身分と一緒にその趣味も投げ捨てたように思えるけれども。

 

 心酔した彼ら彼女らは偏愛を向ける対象へ語らうシュチュエーションでは、時には不理解が当たり前とされても、その神聖さには一切の躊躇いも疑問もないように触れる。自己満足で留まるものもいれば、排他的で乱暴なものまで、様々だ。ネットスラングに語彙を借りれば、まさに信仰しているように見受けられる。

 

 共感力やら同情力、詰まるところ他人の気持ちを汲み取ることが得意とはいえない僕にとっても、特定の文言へ、納得させられたり今の心情に刺さるものに、笑ったり泣いたりといったと喜怒哀楽を見せることや、安い表現を用いればエモい情景へ、付箋を貼ってみたり、ノートに書き写してみたりくらいはする。その行為だけを抜き出してみれば、他の大多数よりコミットしているような気はするけれども、神聖視するような域に達した経験はない。それこそアーティスト(アイドル)のライブなんかは、友人の誘いで、かつ近隣で、それもたまたまチケットがあたりでもしない限り、赴こうとも思わない。興味の対象が特定の人物に向いておらず、ベクトルが異なるだけで、他のジャンルには同量の熱量を持ち出せるのではないか、という疑問もあるが、思考を寄せてみても該当するものは思いつけない。単純に冷めた人間なんだろうか、それとも人生経験が浅すぎてその対象物に出会えてないだけなのだろうか、いずれにせよ少し寂しくも思うわけだけれども。

 

 そんな僕はこの謎めいたベクトルの持ちようへ解消するように偏愛する彼ら彼女らへ疑問を持ちかけてはみても、腹に落ちた回答を掴めたという経験はなく、分からず終いだ。対象物をアイドルやアーティストに限定すれば共感性は低いかもしれないが、わかりやすくいえば野球球団であっても同じことが言える。たぶん彼ら彼女らの言葉は僕に理解できるものではないのだろうし、僕は性格がきちんと悪いので、彼ら彼女らの態度を受け取り、「ハハン、コイツらはそうやって勘違いしようとしているだけなのだ。馬鹿どもめ」と冷笑系スタイルを、少なからずキメこんで切り捨てがちだ。なんならその感情は相手にも漏れ伝わっていたことだろう。自分には理解できないものを馬鹿と決め込む馬鹿のブーメランはなかなか救えたものじゃない。

 

 とはいえ『推し、燃ゆ』はその混濁した傾倒へ、不穏な結末を用意し、主人公は自らを追い込んでいく。周囲は憔悴した主人公へ心配を投げかけるも、それを意に介さないまま、(客観的表現で表せば)暴走を維持する。果たして、彼女はそれでも幸せだったのだろうか。心酔した過去がない自分には計り知れない。

 

 とても詰まらないオチをつけるなら、「時に熱狂は視野を狭くし選択を曇らせる」とでもいえば満足するのかも分からないが、そんな広告文句みたいなフレーズはどうでもいい。肝心なのは、見栄えの良い代物ではないにせよ、その他を蔑ろにしてまでも向かい続ける、ひたむきすぎる想いそれ自体が、生身の身体に宿りうるということなのだ。熱狂の存在。そんな単純な事実が、様々なジャンルへ様々な形で存在し、カオスになっているのが僕達の世界なのだということなのだろう。宗教であれ、政治であれ、野球であれ、作品であれ、アーティストであれ、アイドルであれ。ほんとうになんであれ。きっと、彼ら彼女らに言わせてみれば、どうしようもないことなのだろう。

 

 うってかわって被災地の現在。2024年1月1日以降、断続的な大地の震えにも慣れてしまった非日常。長期休暇も相俟ってなにかできることはないかと思いながらも、特にできることがあるわけでもなく、不謹慎圧力に屈した訳ではないけれども、とはいえいつでも何らかの対応ができるように構えていなければいけない緊張感を強いられながら、スケジュール的にはなんならいつも以上に退屈な日々を送っている。21世紀の暇潰しの代表作、Xもとい旧Twitterを覗いてみれば、こんな最中でも健気にフェイクニュースでインプレッション数を稼ごうとするロクな死に方をしなさそうな阿呆や、科学的に論破されようとも人工地震を語る陰謀論者から、震災に乗じた性的被害を糾弾するフェミニストへ、(後者に至っては僕自身の性別が男性ではあるポジショニングもあるので傲慢かもしれないが、) 被災地に身を置く立場からすれば、お前らはいったい何と戦っているんだと感じた。

 

 そんな、僕からすればズレてる物言いに対しても、賞賛のトークラリーが延々と気色悪くも続く様へ、お得意の性格の悪さから、やはりコイツらは全員馬鹿なんだと思えてしまった。少しは脳みそ使って考えろよと。しかしながら、同時に考えもした。彼ら彼女らはなにかに取り憑かれたように熱狂しているのだと。その熱に浮かされては放されずに蠢いてしまっているのだ。それはもうどうしようもないことなんだ。それは時に現実を置き去りにしてでも彼ら彼女らにとっては大事なことなんだろうと。

 


 そんな徒然でした。