ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

エモさとはなんであろうか。

エモい。こんな言葉にもWikipediaページが存在しており、その概要を覗くとエモーショナル、えもいわれぬといった感情を示す言葉と定義されているようだ。僕の理解では状況や状態に対して共感し、肯定的な意見を主張する際に、感想に困ると使用できる容易な単語として市民権を得ているように思う。自身もエモいエモいと多様することで安さに身を置くことを許している。が、いったいどういうシチュエーションにその言葉を形容しているのか少し定義づけてみたい。題材は最も適材と思われる進撃の巨人を取り扱う。


簡単な概要も兼ねて、作品内にてエモいと思われるシーンについて羅列していく。前提を共有しないことには語れないため、ネタバレにはご注意を。


①前提の世界観

(壁内)

あらゆるメディアで露呈し続けているため詳細の説明は野暮なので割愛。人間を食らう目的不明の巨人のために狭く囲われた壁の中に追いやられた環境の下で、人類の為にと声高々に討伐し壁の外へ自由を求めんとする主人公。犠牲を払いながらも辿り着いた真実は、自分たちこそが人間を食らう巨人であり、巨人に向けた憎悪はそのまま、壁の外の世界から自分達へ向けられるものだったという残酷さだった。彼らにとって、かつて唱えた人類の為にという言葉は、皮肉な呪いとして壁の外の世界の感情を受け止める他なかった。


(壁外)

巨人となれる壁内人類を利用し、かつ壁外人類にとっての仮想敵として連帯を図る為にも、壁外人類はかつての贖罪の為に貢献し続けなければいけないという物語を土台とし価値観が構成されていた。巨人になれる壁内人類は罪深く穢れた存在であり、救いの道は戦争のなかで戦果を上げることでしかない。それはすでに組み込まれた摂理として争うことはおろか、疑いの目をむけることすら憚れるほどの文化のなかで、互いを憎しみあうことでしか自らの価値を認められずにいた。


②おりあわない世界の中で

巨人になれる人類(エルディア人)は2通り存在する。

a)壁内には主人公側の、世界の憎悪を向けられる真実を知るも生存を願う存在。

b)壁外では上記の贖罪の道を求められ、だからこそ身勝手な壁内の同族の殲滅を目論む。

同じ人種にはなれど、道を違えた二者間では、物理的距離、もしくは歴史的対立から対話は存在できない。


③それぞれの立場を持って

双方を理解しながらも自身の大切なものを優先する者

b)に属するライナー、ベルベルト、アニの3名は、偵察および殲滅のためにa)の壁内環境に忍び込む。彼らの生活に身を馴染ませ、彼らが決して身勝手な存在ではないのだと気付かされる。しかしながら境遇を知った上で、彼らは強いられた命、つまるところ壁内人類を殲滅するという残虐行為を選択する。その行為が導き出すものは、愛する者を失う、彼らの生活を破壊する、憎しみの連続他ならないのとだというのはの承知の上で。それでもその選択をしなければいけないことは、ライナー、ベルベルト、アニ達にとっても守らねばならないものがあるからだ。

 

『私には…帰りを待つ父親がいる。そして…私と同じように、他の人にも大事な人がいる…。もうすべてがどうでもいいと思わない。私はこれまでに取り返しのつかない罪を犯したと思っている。…。でも、父の元へ帰るためなら、また同じことをやる。』

講談社諫山創 著「進撃の巨人」31巻

それを受け止めた友人は状況を見渡しながら零していく。

『そっか。それが聞けてよかった…。でも…あんたが父親の元に帰っても、瓦礫と死体のしかないと思う。』『…。…そうね。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」31巻


互いの状況が理解できたとて、大切なものが異なり双方を選べないからこそ、傷つけてでも幸せを願ってしまう。折り合わない世界が心苦しい。

 

双方の立場を分からず知ろうとしないまま、自身の主張のみを貫こうとする者

ガビというキャラクターは、b)の巨人になれる壁外に身を置き、贖罪の物語を信奉していた。世界がそれを求め、自身もそれに準じる。読者はあくまでa)主人公の壁内人類側の視点で物語を眺めているため、感情移入はしづらく、なんとも愚かな存在として視点誘導される。その過程でa)の壁内人類の重要人物を殺めてしまう。その父親を前にして。

『ッ…!!目を覚ましてれ!あなたはマーレの兵士でしょ!あなたは きっとその悪魔の女に惑わされてる!!悪魔なんかに負けないで!!』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」28巻

なんとも残酷で配慮のない言葉をいってのけたが、父親はガビを許す。徐々にa)の世界を理解していく、しかし過去がなくなったわけではなく、後戻りできない状況に苦しむこととなる。

『どうしてお姉ちゃんを殺したやつのことなんか…心配するの?私は許さない。殺してやりたい。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」29巻

この率直な憎しみに涙を流しながら吐露していく。

『悪魔なんていなかった…。この島には…人がいるだけ。やっと…ライナーの気持ちがわかった…。私達は…みたわけでもない人達を、全員、悪魔だと決めつけて、飛行船に…乗り込んで…ずっと同じことを…ずっと同じことを繰り返してる…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」29巻

 

気付いてしまったからこそ、自身に強いられた文化や先入観へ抗うことの苦しさと、自分が行ったことへの懺悔が、これまでの人生を否定する。


双方の立場を理解してし、背負生きれない者

スパイとして身を潜めたライナーは、同期となる主人公へ取り入り、裏切り、壁を破壊し、母を殺し、多くのb)壁内人類を蹂躙を尽くした。その事実を知った主人公は激昂し、憎悪の限りを彼にぶつける。しかしながら彼自身もその残虐性を理解しており、迫り来る罪悪感に耐えきれず精神を分裂し、あるいは自害を試みる。自身を肯定できないまま、時は過ぎ、主人公との再会を果たす。自身への恨みを果たされるものと覚悟していたが、かつての過激な性質な様は見てとれず、ただ冷淡に対談の火を囲む。

 

『だが俺にもお前達が悪者に見えた。あの日…、壁が破られ俺の故郷は巨人に蹂躙され、目の前で母親が巨人に喰われた。あの日から…どうして何もしてない人達があんな目に遭って…大勢の人が食い殺されてしまったのか…俺には分からなかったんだ。なぜだ?ライナー、なんで母さんはあの日巨人に食われた?』

『…それは、俺たちがあの日…壁を破壊したからだ…』

『なぜ壁を破壊した?』

『…任務に従い、混乱に乗じて壁内に侵入し…壁の王の出方を窺うために…』

『その任務とは?』

『…始祖を奪還し、世界を救うことが目的…だった…,』

『…そうか。世界を救うためか…。世界を救うためだったら、そりゃあ、仕方ないよなぁ…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

 


どちらかの意見を優先することなく、ただ事実整理かのように慎重に言葉を並べる。


『確かに俺は…海の向こう側にあるものすべてが敵に見えた。そして…海を渡って、敵と同じ屋根の下で、敵と同じ飯を食った…。ライナー…、お前と同じだよ…。もちろんムカつく奴もいるし、いい奴もいる。海の外も、壁の中も、同じなんだ。だがお前達は、壁の中にいる奴らは自分達とは違うものだと教えられた。悪魔だと、お前ら大陸のエルディア人や世界の人々を脅かす悪魔があの壁の中にいると…。まだ何も知らない子供が…、何も知らない大人から、そう叩き込まれた。…いったいなにができたよ。子供だったお前が、その環境と、歴史を相手に。なぁ…?ライナー、お前…ずっと苦しかっただろ?今のオレには、それがわかると思う…。』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

歩み寄る主人公に対し、ライナーは内心に嘘は貼り付けられず、誰にも明かすことの出来なかった真実を吐露する。

 

『違う!!』

『違うんだエレン…(中略)。オレは英雄になりたかった…!!お前らに兄貴面して気取ったのもそうだ。誰かに尊敬されたかったから…あれは…時代や環境のせいじゃなくて…オレが悪いんだよ。お前の母親が巨人に喰われたのは俺のせいだ!!もう…嫌なんだ、自分が…。俺を…殺してくれ…。もう…消えたい…』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

この言葉を吐いた背景には、彼の脳裏にはこびりついて離してくれない記憶が存在している。

『…ずっと、同じ夢を見るんだ。開拓地で首を吊ったおじさんの夢だ。なんで首をくくる前に僕達にあんな話をしたんだろうって…。』

『誰かに許して欲しかったんでしょ』(中略)

『僕は…なぜかこう思うんだ。あのおじさんは…誰かに–、裁いて欲しかったんじゃないかな』

講談社諫山創 著,「進撃の巨人」25巻

どれだけでも綺麗な建前を並べてはいたが、結局は自分が可愛くて、自分が憎らしい、そんな自己肯定の弱さのために行動を起こしてしまった愚かさを悔いる。逃れられない主観性に苦しんで、それでもあの時の行動を変えることはできなかったのだろう。主人公がこれから歩む道は自身の大切なもののために世界を犠牲にするといった、かつてライナーが歩んだ道のりだ。客観的に自分達の破滅こそが、世界が望んでやまないものだとわかっていたとしても、自分達の幸せを望んで諦めることができない。その愚かしさを背負うことを、自分を唯一理解してくれるだろう、ライナーと腹を割って話すことで覚悟を決める。

 

理解しえないもの、理解したとて自身の大切なものを選ぶもの、理解してなお背負いきれないもの、各々が各々の苦悩を抱えて行動を選択する。全肯定されるものではなく、非難を避けて通れるものでもなく、それでいてどうしようもないもの。その基準値は、身に置かれた世界や文化、価値観、そこから培った経験なのだろう。経験がより解像度深める一方で、経験があるからこそ妥協できない、視野が狭まるジレンマはあるんだと思う。一般論的には経験こそが尊いものだと謳われる一方で、狭量な世界へ閉鎖する愚鈍さを導き出してしまうが、それは決して否定されるものではない。経験こそが主観を構築してしまい、それは客観を凌駕するもの足り得てしまう。

 客観性を帯びて説教じみた傍観者の立場に甘んじればどれだけか生きやすいのだろうけれども、そんな卑怯なスタンスは、つまるところ面白くないのだ。正しさの基準値から外れていて否定はされても肯定されない、逃れようのない主観性と、その副産物としての苦しみ。これが僕が考えるエモさだ。

強さでの連帯感は瞬間的な熱狂に支持されて酷く脆く、客観で協調されたものはただの論理的整合性でしかなく、弱さで分かち合うことでしか繋がれないのが人間なような気がする。一見アホと呼ばれても、それがその人らしさであって、生きるということなのだろうなぁと思って愛でる訳です。あまり伝わった気がしないなぁ。