ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

「できることとできないことがあるんだからね」。

 転職のタイミングと母親が癌に罹患したそれとが重なった。ステージ3と聞けば危機感に襲われるが、症状の子宮体癌は適切な処置を施せば5年間での生存率は70%弱である。既に罹患箇所は手術し切除した後であり、化学療法と薬物治療による点滴を繰り返すことで再発は防止できる可能性が高いのだという。本人の口からは直接語られることはなく、ネットで調べて得られた情報だが、少なくとも本人からは治る病気なのだと念を押されている。

 

 術後の影響で既に毛髪は抜けており、帰省してた際に寝室に飾ったいくつかの鬘が戸棚に置かれていた。戸惑った様子を見てか、いくつかの種類で揃えていると母親から少し困った笑みで説明された。こちらの種類だと色が明るすぎる、こちらの種類だと髪の長さが目に当たる、と悩みを打ち明けるように会話を続けた。入浴後も鬘を取らずにタオルで頭を巻きながら。

 

 ゴールデンウィークには既に発覚し手術は完了しているようだ。推量系で記載するのも知ったのは事後のことだったからだ。個人的な事情によるものだからこそ、退職することを特に相談することなく進めていたが、いよいよ最終出勤日間際の段になって報告すると、変わりに罹患していることを伝えられた。自分の緊張感が新事実の衝撃で上回った。7月には弟の結婚式が控えている時節だったのもあり、父親以外にはまだ伝えられていないのだという。なんと答えていいのか分からなくなった。

 

 転職先はまだ決定していなかったが活動を始めていた。関東で就業しているが、実家は石川県にある。Uターンを考えていなかったからこそ、酷く混乱した。父親の仕事柄、転勤転校を繰り返していた。石川県で過ごしたのは転校した中学2年生から予備校まで、大学は関西で一人暮らしを始めたため、人生の中で石川県で過ごした時期は短い。故郷としてのマインドセットは自分の中で固まっていなかった。構築した人間関係のリセットは自分の中で強い抵抗感があり、転勤転校するその都度、それを強いてくる父親に苛立ちを覚えていた。致し方なかった事情は汲み取れるし、むしろそうあるべきという正論は耳障りの良いものだが、当時、幼少の頃の僕の感情が顔を出す。大袈裟なのかもしれないが、それだけ当時の僕には深刻で真剣なものだった、それを今でも許してくれないものたらしめている。
 伝統的な価値観を重んじる父親は長男として地元に戻るよう説得された。大それた土地があるわけでも、家業があるわけでもない。これまで振り回された自分の人生から、また強いてくるのかと厳しく反感を示した。それから父親は直接自分に対して意見を言うことを避けるようになった。


 実家に戻る選択肢を積極的に取りたくはない、少なくともそれを選ぶことになったとしても父親の影響での帰結はしたくはない。自分で自分がいる環境を選べるようになりたい、と大学を卒業する間際、強く願った。

 母親の症状を聞いたときに、選択肢として石川県が再度、自分の人生に現れた。正直に母親に聞いた。白状しろとでも言わんばかりに。あまり余裕がないと言い訳で自身を許されようとしながら。母親からは自分の好きなようにしていいんだと口を添えた。


 母親は生来的に難聴の障がいを抱えた障がい者だ。手話こそ使わないものの、口の動きから言葉を読み取り、また筆談で会話を成立させた。だから母親とのコミュニケーションに電話の手段は存在しない。遠く離れた今や、LINEに紡がれる一言一句が全てだった。声から感じ取れるニュアンスや雰囲気で感じ取れるものを排除して、そこから含みや言わんとする内容を精一杯吸収する。
 安心させたいが為に既に内定を頂いている企業はあるのだと伝えた。事実ではあったが、希望とは異なっていたのが内心だ。これもある、あれもあるんだと一度言葉を繋いだら止まらなくなった。地元の会社も選考中だから、望むのであれば言ってくれればいいと伝えた。けれども、母親は好きにしていいのだと繰り返し書き続けた。けれども、続けてこうも言った。

「できることとできないことがあるんだからね」。

 

 

 転職活動を続けて急に石川県への方針転換をすることは容易ではなかった。他地域と比較すれば金銭面は勿論だが、業務内容も異なっていた。これからのキャリアパスも当然異なる。志向していたものと異なる言葉を並べることに澱みを隠せず、あからさまに興味が持てないことが溢れてしまう自身の振舞に苛立った。一方で、見送りとなる連絡に安堵している自分もいた。とある連絡には「覚悟が足りない」といった記載があるが、その通りなのだろうなと思うに至った。何者かになりたい自分、かつての自分の亡霊。自分の何かが邪魔しているんだろうなとも思えた。暫く続けて、自己肯定感にも限界がつき、誘ってくれていた企業への就業希望を伝える連絡を担当者へ送付した。

 それから長く地元に帰省した。祖母が高齢者鬱の症状が出ており、普段は父親が毎晩サポートに向かっていたが、所用で代理で対応して欲しいとのことだった。年末ぶりに石川県へ足を運ぶこととなった。祖母は趣味の手芸や料理から、地域の集まりにも参加するなど、祖父が亡くなってからも積極的な女性だったが、片目の失明や、昨今のコロナウイルスの情勢からも上手く叶わず、それが胃腸炎などの症状に現れたという。少し休みがちな様子や痩せた身体から、何かできることはないんだろうかと手探っていた。服用するタイミングが異なる薬の組み合わせが難しいとのことだったから、分かりやすいように配置を変えた。あまり食が進まないとのことだったので、「山形の出汁」という茄子と胡瓜を食べやすいように微塵切りにして大葉と茗荷を添えた料理を作った。いずれも喜んでくれた。何泊かを続けて、できることを探していった。

 

 同時期に母親も点滴を控えていた。入院となる前に点滴施術たりえる体調か確認の為の血液検査がある。血液検査での白血球数が所定以下の数値で検出されたちめ、延長、再調整となった。癌施術の後ではよくあることのそうだ。医師との面談に立ち会うことはできなかったが、母親の言葉を聞いた後に、ネットで検索をかけ裏を取った。お盆明けに再調整の日程が決まった。検査の日にはいつも僕が車を動かすことにしていた。実家には外車と軽自動車の2台あったが、軽自動車を自分が自由に動かしていいものとしてあてがわれていた。アクセルに遊びが多いが、迎えに行くたびに徐々に自身の身体の一部として慣らしていった。


 点滴となり入院となれば、一泊二日となる。父親は昔から家事は不得手だったが、洗濯とアイロンがけはするようになったようだが、それ以外には門外漢だ。3日も家事を放置する訳にはいかないので、僕がその間の担当を務める必要があった。また、母親自身のタブレットとしてsurfaceを所持していたが院内のネット環境が微弱であるため、GEOで時間を潰す為のDVDと、県内で新設した図書館にて借りた本をトランクケースに納めた。医か少しでも確かな情報を得たいと医師から話を聞きたいと願ったが、術後で既に説明済みでもあり、またとにかく迎えてくれるだけでいいから、という母親からやんわりと断りの言葉からもそれは叶わなかった。だからこそただその場所へ向かい、そして見送って終わった。
 心が落ち着かないこともあり、母親が入院の為本を借りたという図書館へ足を運んだ。県内では話題になっている新設された図書館だ。21世紀美術館や金沢海みらい図書館に代表されるように、石川県特有とでもいうべきか、世界史の参考書にでも掲載されているような、ドーム型に席が配置され、意匠の凝らした椅子が添えられ、地図がないと分からないような分布図の、特徴ある現代的で印象的なデザインで構築されていた。その中の一席に身を預けて、適当に選んだ図書へ目をやれど、文字が目を通せど頭をよぎらない。考えをまとめようと目を閉じても、どこにも辿り着かなかった。無力さからくる、虚しさと悔しさが身体を支配した時に、妙な痺れが流れた。とにかくこの気持ちを紛らわしたかった。一本でも多く煙草を吸いたくなって、図書館から退出しコンビニまで車を走らせた。けれども、何本吸っても心臓の音は鳴り止まず、煙草の箱を握り潰して投げ散らかした。母親は煙草の匂いが嫌いだった。

 

 父親との会話は日頃から乏しかったが、その日はいつも以上に言葉を選んだ。元々上手く気持ちを言葉に表明することを不得手とした人間だった。それが奏じて、口喧嘩に発展することも多かった。けれども、行動原理は常に周囲の人間に向けられていた。不器用なだけだったのだ。母親も、彼は仕事は上手く回せていないのではないかと苦言を呈したこともあったが、それを聞いた時に自分も父親に似たところがあるのだろうと思った。現在。父親にとって自身の母となる祖母が体調を崩し、また妻となる母親が癌に罹患し、彼が抱えるものは大きいように思える。59歳となって再就職の時期も迫る中、備えて10年間挑んだ資格試験の結果も功を奏ずることがなく、自身のことも確証を得られないままに。かつて自分を殴り飛ばした父の手が少し小さく思えた。小学生の時は理不尽に手を出されてたなと遠い記憶に気持ちを配らせたが、それも大人になって自分もしてきたことを思い出すと、苦笑以外の表情筋の行く末が分からなかった。

 

 無事退院し、祖母も医師から回復の兆しが認められた。僕自身も就業にかける準備があるため、関東へ戻った。感情を整理したいという気持ちが勝ったのが、本音かもしれないが、分からない。

 

 

 7月、弟の結婚式が大阪で催された。たびたび喧嘩はしていたものの、中学2年生の喧嘩を境にあまり親しく会話をすることがなくなった。僕が中学2年生は石川県へ転校転勤した年であり、そのコミュニティに上手く馴染むことができず、その影響が少なからず弟にも回っていた。その不満が弟の中にはあったのだろう。自身のプライドとの折り合いがつかず、それを自身の欠点として認めることができなかった。それが起因してかは分からないが、高校は異なる学校へ進路を決めることになる。弟は楽観的で、周囲を巻き込めるだけの魅力が生来的に備わっていた。結婚式に集まった来賓は戯けた笑顔でこれぞ人生で最大の幸福と言わんばかりに振る舞っていた。妻として迎えた女性やその親族も、互いに声を掛け合いながら祝福を願っていた。我々どもの親族は、どちらかというとお堅く、静かな家系であって、あまりその場の雰囲気には溶け込むことはなかった。要するに異なるコミュニティの会合の場面となり、我々どもの親族と、この世の春を謳歌せんとばかりの人間が集まっているようだった。父親はいつも以上に言葉足らずになっており、婿側の親族が酒を注ぎにきても素気ない態度でしか返せていなかった。悪気はないのだけで場に慣れていないのだろう。
 母親は笑顔を常に浮かべていた。他人と接点を持つ場面で、上手く場の状況が理解できていない時に出る、彼女の癖だ。難聴といっても全く聞き取れないわけではなく、声の振動や口の形で言葉を読み取れるのだが、コロナウイルスの関係もありマスク着用のままであれば、読唇術も上手い活用の機会が失われてしまう。恥ずかしい話だが、この場面になるまで思い出すことがなかった。結婚式の案内書面を指差して、いまどのシチュエーションにあるのかを式の運営を邪魔しない程度に伝え続けた。時折見せる母親の潤んだ瞳に言葉が詰まった。この人は、息子の祝福を、この場にいる誰よりも喜んでいるのだと分かった。両親への感謝を言い渡す場面では、弟が気を効かせて、事前に原稿を母親に渡していた。それは、素直に素敵だった。僕の人生で1番綺麗な光景だった。
 写真撮影の時間が設けられた。友人達がこぞって夫妻の元に駆け寄るが、母親は和かにしており、父親ははにかんでいた。たぶん誰よりもあそこに駆けつけたいのはこの人なんだと確証があった。だけれども邪魔できないとでも思えたのか、上手く口に出せないのだろうか。こんなときに手を伸ばせないでどうするんだと膝を打った。賑わう輪に挟み込んで母親に順番を分けてくるるように頼み込んだ。自前のミラーレスのカメラを持ってくるんだったと後悔した。いや、一眼レフでもなんでもなんでも、1番上等なものをヨドバシカメラで掴んでくるんだったと後悔した。周囲は母親との撮影に協力してくれた。偏見を持って構えていたが、心優しい人達だった。家族での写真を撮ることができて、本当に良かった。

 


「できることとできないことがあるんだからね」。
 母親はなにかを諦めてきたのだろうか。
 母親は大学で教員免許の資格を取得しているが、教職に身を置くことはなかった。ギターを購入していたが、僕達の前で演奏することはなかった。大学を選択するときも地元から離れることも私立を選択することも、浪人するものなら働く選択することしか、用意されていなかった。僕から見れば祖母は優しい人間だったが、当時の価値観として障がいを持って生まれた娘に、家計的な制限があれど家庭で守られて欲しいと願ったのだとろうが、母親にとって、やりたいこともしたいことも、きっとあったのだろうなと思えた。たぶん多くのものを諦めてきたのだろうなと思った。
 だけれども、僕も含めて、息子のことはきちんと愛してくれたのだろうと信じられる。母親の今の願いは、自分の子供が幸せであることなんだろう。自分にはできなかった選択を、自分の子供に与えることが
 ズルいことも可愛くないことも持ち合わせていたけれども、子供達のことがなにより大事だったんだろうな。
 自然と母親のことを想うと涙が溢れて留まらない。なんでだろう。

 

 誘われた会社は中部支店での採用だった。新幹線で2時間かからず、車で3時間強。同じ中部地域ということもあり、まだ関東より石川県へ距離が近い。これから月に一回は地元に戻ろうと思った。そしていつか、ちゃんと石川県を地元と言えるように、帰れる場所になれるようになろうと思った。そしていつか母親に、そして父親にも恩返しができるようになろうと、今は思う。それだけは諦めてほしくない。