ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

夫のちんぽが入らない/コンビニ人間の書評。

この二つを読んだ時、かつての村上春樹江國香織吉本ばなな

歴史を辿れば夏目漱石太宰治に希求された役割を現代で再現しているように感じた。

 


共通項は自己肯定感があまりにも低いということだ。

自己評価が著しく低い私を示すがために、相対的に「全体的」「普通」「常識的」と言った外部評価が上層構造に位置を占める。自己評価が低い彼ら彼女らは自身の正しさを打ち立てることができないがために、「普通」や「常識」という上部構造に正しさを求め、また敗戦の歴史を積み上げ、その重みに苦しみ続けてしまう。

 


時代や環境によって姿カタチを変える「普通」や「常識的」に、一貫性や論拠を求めるのは無謀であり、その都度空気を読みあうと言ったローカルルールの理不尽に縛られ続ける。

結果、劣勢に常に晒され続ける彼ら彼女らは、羞恥心や申し訳なさ、罪悪感と言った感情から逃れられない。

自身の存在に対してネガティブな評価しか定めることができない彼女らに立ちはだかる「常識的」や「普通」の無遠慮な暴力は、簡単に彼ら彼女らを壊していく。

理不尽に姿かたちを変え続けていく化け物に対し、時代時間に最適化するように物語は生産されていく。マジョリティとマイノリティの二項対立は普遍的に存在し続ける。

 


それを代弁するために、形ある公的な領域と私的な領域の構造を取りながら描いてきた。公的な領域の代表として描かれてきたのが、国家であり、政府であり、企業であった。時代性を敏感に読み取り、分かりやすい大きな枠組みへの異議申し立てといった構造へ当てはめやすかったというのが、大きな理由だろう。しかし複雑化する現代の中で、はたして政府を悪と捉えれば解決するのか、また企業を悪と捉えれば満足するのか、そこには疑問が残ってしまう。私的な領域を描く為に、公的な領域の中で物語ることはもはや難しい。

 


そのため、相対化を許すことなくあくまで私的な領域に留まり描き切ることが重要とされる。本屋で再度平積みとなる太宰治夏目漱石といった私小説の作家陣が再評価されているのは、そういった理由なのだろう。

体系的に読み上げているわけではないが、現代作家で言えば、村上春樹吉本ばなな江國香織が当てはまる気がしている。

 


自己肯定の構成要素として、他者評価の他に、自己満足の割合を一定数確保するべきなのだ、自身の納得に一定自身を委ねる傲慢さを許容すべきなのだ。そのバランスを自身の最適に調整すべきなのだろう。自己満足と他己評価との衝突と微調整が生涯かけて学ぶべきテーマなのだろう。

 


夏目漱石太宰治は現代までの消費期限が充分といえず、村上春樹は公的な領域への侵食を進め、吉本ばななは自己満足の領域の拡大に歯止めが効かなくなり、江國香織自家中毒に陥ることとなった。結果として、純粋に私的な領域を私的な領域のままあくまで社会に留まることを目指した枠が空席となった。

 


自己満足と他己評価のバランスの難しさを描き切ることは難しい。だけれど、絶妙な力加減を問われるこの役割を全うするほど、美しいものはないと思う。ポップな作風ではあるが、この2つの作品にはその可能性を感じることができた。そんな気がする。