ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

ウソはホンモノの夢を見るのか。

 「窮鼠はチーズの夢を見る」。対象となる作品は察しの通りに、ブレードランナーよろしく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」になぞり、叶わない願望にも縋ってしまう切なさを、アンドロイドを同性愛者へ換骨奪胎した内容だった。誰に感情移入できるかによって見方が変わるタイプのラブロマンスで、サブスクにどこにでも落ちているため、興味があればクリックすればいいと思う。別に誘導しようという意図はなく、粗筋も無視して、自分の感想だけ述べることにする。

 

 同性愛を対象にした作品であれば、いくつか目を通してきたし、そこに属する人間たちにも実際に話してきて、もしくは自身が対象として見られたこともあった(実際に痴漢にあったこともある)。個人的趣向性はその方針を取らなかったからこそ、属さないという一点では埋まらない溝はあるのだろうとも思っているけれども、理解しようとは、何故かはわからないけれども、考えに触れてみたりしている。

 


 特段この件に限らず、近づこうと覗こうとすれど、理解し合える気がしないと手酷く拒否されたこともある。どうにも、自身には棘があるのか、はたまた崩せない固定観念を感じさせてのその言葉なのかは、今や知る由もないし、ただ影法師のような死神に取り憑かれているだけなのかもしれないが、とにかく忘れさせてくれない言葉として残り続けている。その言葉を忘れんとしてなのか、定期的にこの、自身には属さないけれども、確かにある異なる価値観に触れようとするのが、自分にとって海外旅行のような、異文化交流なのかもしれない。

 


 とはいえ異文化交流と呼称できる体験には、外界に触れて自分の殻をなぞる、言葉にすれば安く胡散臭い、自分探しの要素が含まれるように思う。だけれども、どうにも自分とはなんぞいや、という回答に応えられるなにかを捉えれていないし、一向に掴める気がしないのは不思議な話だと思う。いつも知らない考えや情報に触れても、まぁそういう考え方もひとつあるのかもしれないと側でみて観察するに過ぎなくて、自身のことに還元できない。誰かと話しても、なにかに触れても、結局はその通りで、なにもかも自分とは異なる世界なのだと切り捨てようとする様は、結局のところ怯えているにすぎないのかもしれない。

 


 自分を客観的にも主観的にも覗くことを忌避するのは、ロクな過程を築けていないことへ帰納するのだろう。自分が行うひとつひとつの行為に自信なんて持てないあまりに、ロジックだの合理性だの効率性だのと、無機的なバックに安心感を覚えようとする。馬鹿な話だけれども、例えば酔っ払ってシャワーも浴びずに寝て、寝具に汗が付着することや自身から籠る体臭へ気持ち悪さを覚える一方で、愚かさに溺れることへ、自分にもそれを許せるのだと安堵してしまう。自慰行為ですら機械的にすます自分が、アルコールの力を借りなければその刹那に興じることはできないのは、一体どうしてだろうと息を潜める。次々に知識だけは手に入って、妥当性へスリムアップしては虚しさを増やしていく。睡眠すらApple Watchが唱える数値分析に委ねているあまり、性欲・食欲に安堵できるほど自分を曝け出せない。

 


 同性愛者に興味が引かれるのは、いや別に同性愛に限った話ではなく、LGBTとされる人物達は、自身という物差しに沿って価値を決められる、あるいは決めようとする人達だからなのかもしれない。そこに何か憧れのような気持ちで、そんな人間になりたいと溢れてしまったものを自分に残すからなのだと思う。自分に都合よく解釈しているその様は、斜に構えてるだとかと非難の的にされうるのは重々承知だが、彼ら彼女らはその象徴なのだと、その逞しさや凛々しさには尊敬の眼差しでしか見つめることができない。感覚から感情へ、感情から価値へ、価値から思考へ、その昇華のプロセスの一段階目から脱落している(その点もはや女性が性向の対象なのかすら分かっていないのがほんとうのところなんだろう)。大学時代にどういうわけか、くるりの「犬とベイベー」の歌詞にある、どうすればいいかと繰り返したあとに続く、「どうしようもない」という言葉に惹かれた。なんにせよ、そこに存在する自身の性質からは目を背けられないといったニュアンスに魅力を感じずにはいられなかった。食欲でも睡眠欲でも性欲でも、自分を正直に定義できる物差し足りえるならいいじゃないかと思えた。

 


 かつて「君の名前で僕を呼んで」を鑑賞した際に映画館で置かれた感想を書き込むクリップボードに、「BL最高」と記載されたコメントへ、台無しにするような安い感想だと非難の感情を向けたことがあった。だけれども、抱えたコンプレックスを解消せんがために拵えたフィルター越しでしか測れない、同じくらい安い感想をこの作品へ向けている自分へ直視することを避けていただけなのだろう。なんとか愚かな自分にだけは気付けただけ、マシなのかもしれない。自分が嫌いになれることだけには気付ける、皮肉めいた話だ。