自由
中略)
…労働はその個人の自由を奪うけれど、見返りにもたらされる給料で、様々な商品を買うことができる。
かつて自分で畑を耕し、収穫し、狩りに出て獲物を捕まえなければならなかったその時間を、農家に代行してもらって、収穫済みの野菜や、解体済みの肉、或いは調理まで済んだ食べ物を手に入れることができる。ある自由を放棄して、ある自由を得る。
(中略)
…自由とはそうした様々な自由の取引なのだと…(中略)。
…若者は絶対的で純粋な自由というものがあると思い込んでいる場合が多い。若者はそうした偽りの自由を通過し、謳歌する必要があるんです。大人になって様々な決断を迫られる状況になった時、みずから選ぶ自由がより高度な自由だと、リアルに感じてもらうためにはね。』
友達に頼んで、公務員試験の参考書を譲って貰った。
来年度には転職を、と漠然と考えていたためだ。
しかし、郵送で届いた瞬間まで現実味がなかった。
受取のサインをして初めて、リアルな焦りを感じるに至った。
自分は何かを選択して、代わりに何かを捨てたんだという、適切に言語化は難しいが抽象的な危機感がそこにはあった。
ここでのブログでも、逃げ口上の決まり文句に選択の重要性を謳ってきたはいいものの、自分自身その立場になると尻込みしてしまう、要は小物なのだ。
そもそも選択に価値なんてあるのか。
重いだけじゃないか。決められたレールのなんと乗り心地の良さか。
いつまでもスタート地点に戻りたくなる欲求が疼く。
人生がスゴロクであれば、決められたマス目に、マス目通りの人生を送ればいい。
選択の次に、実行がある。
仕事をするようになって特に思うのだけれど、目標のために、自分自身を手段や道具として、目的に徹頭徹尾行使できる人間は強いと思う。
障害として、人間の様々な感情があると思う。
怠惰や羞恥心、懐疑心などが代表するものだ。
「そりゃしなきゃいけないのは分かるんだけれど…」
と、邪魔をする。
僕の中でそれは、凡ゆる事に対して大きく立ちはだかる。
いわゆる、実行力とか行動力といった表現をされるものだろう。
感情を制限し、行動させる能力だ、汎用性が高いため、この能力に長けた人間は価値が高い。
自身を手段と割り切るには、目的がまだ曖昧なのかもしれない。
迷いがあるのかもしれない。
「これでいいのか?」
と小五月蝿い自分がいるわけだ。
小五月蝿い自分と、どこかでケリを付けなければならない。
選択猶予期間が眩しく遠い。
選択とは、自由と二律背反ではない。
選択には自由があり、不自由がある、というのが上記の述べる言葉の意味だ。
自由の重圧に耐え切れない人間には、選択は過ぎる事象なのだ。
そもそも、自由と幸せの相関関係はいかがなものなのだろうか。
自由→幸せ
なのか
幸せ→自由
なのか、はたまた
不自由→幸せ
なのかも分からない。
少なくとも、他人に誇れるような選択の選び方なんてものは、俺にはまだ分からない。