自己開示的コミュニケーションについて
自己開示的コミュニケーション
プライベートな快適性を追求し友好な関係性の構築を目的としたコミュニケーションのひとつに、表題のものがある。
事実、平積みになったビジネス書等のベストセラーの数々や自称心理・社会学者は大いに謳ってきたことだし、僕の周りでさえ巧みにテクニックを機能させて信頼を勝ち取ってきた存在もいる。
一定の効能はあるのは否定ができないことだと思う。
であるならば、僕自身もそれを有効に機能させ、快適な人間関係を築こうじゃないかと考えた時も、おそらく記憶を辿ればあるのだろう。
しかしながらというべきか、特段その欲求は少なくとも今の自分にはなかったりする。
人間関係を円滑に、という価値それ自体は普遍性を帯びているだろう。教科書にも「人間は社会的な存在」と謳っていることだ、僕もそんなことは分かっちゃいる。
だけれど、どうしてかな。
自己開示的コミュニケーションに、普遍的で全方位的でな夢は見出せない。
要因を整理すれば以下のものが挙げられる。
命題「自己開示的コミュニケーションを取れば円滑な人間関係を築ける」
図式化すれば「自己開示コミュニケーション→円滑な人間関係の構築」となる。
上記に対し
①その反証を自身の中で感ずることがあるため信じられない
例)「自己開示コミュニケーション→円滑な人間関係の構築」式の破綻
②そもそも目的地である「円滑な人間関係の構築」を欲していない
③「自己開示コミュニケーション」ができないため、諦めている。
上記に対しアプローチを試みる。
まず比較的簡易な、③について。
これは大いに当てはまる。
感受性は乏しいからか、特に語らなければならない出来事は、自分の生活には見当たらない。
それも自己開示的価値のある、つまるところ恥部とも呼ぶべき物はない。
(ご立派な生活を送っているというものではない。誰が一日飯を作って昼寝をした話を聞きたがるっていうんだ?)
だからといって、自己開示的コミュニケーションを取ることを目的に、自己開示的要素を偽造しようとするのには疑問的だ。自分の生活に価値を創出しようと努力するのは素晴らしいが、自分にないものまで脚色しようとするのは悲劇だ(例:Instagramとブランド物)
①について
恥ずかしげを惜しまずに築けるほどの人間関係を欲しているのか、と言葉を直して考えてみる。
幼少期からの関係性にこそ価値があると主張する人間が多い、という前提を置いてみる。
上記の根元には、小学生にもなって教室でオネショし、初体験は誰と失敗し、何を万引きし、といった過去まで共有できており、自己開示が完了した良好な関係性に安堵を覚えているからではないだろうか。
もし期間の経過を共にしておらず、自己開示的イベントを共有のものとしてない対象者と、同様の関係性を求めるのであれば、言語での自己開示交換が必要となってくるであろう。
(勿論例外もある。カリスマ、感性、価値観、容姿、資金力など。ただそれらは要素さえ身につければ交換可能な関係性となってくる。求める関係性は裸の王様でも付き合えるような関係性に限定しよう。)
よって仮定にはある程度の正しさを帯びているとする。
ただ、これには良好な関係性を築くための、あくまでいち手段に過ぎないことは忘れてはいけない。
②について
良好な関係性を求めていない、といえば嘘である。
良好な関係性は築きたいし、なるべくであればそうありたいと願ってはいる。
面倒なので結論を言う。
無理に築かなければ形成できない関係性を「良好」な状況と呼びたくない。
前述の「ライ麦畑でつかまえて」の著者、J.D.サリンジャーから幼少訓練を親しませた人間だ、ナチュラルな関係性こそ至高だと教え込まれてしまっているのも原因だろう。
自然発生的な関係性を求め、恣意性や指向性を含んだ関係性は所詮は技術だ。
技術は交換可能性を孕む。
交換可能性を孕んだ関係性は代名詞的な存在だ、固有名詞が入り込む余地は狭まる。
そこには自分がいない。
自分がいない虚無感にいつか苦しめられることとなるような気がしている。
そこには、メンヘラ的な趣向を含む。
私が俺が僕が、と自己主張が顔を出すのだ。これは決して正しい姿勢ではない自覚はある。
関係性を築く過程には、恣意性や指向性はどうやったって含まれる。
1人になりたくない、情報を交換したい、慰めて欲しい、憂さを晴らしたい。
割合はどうであれ、(利他的ではなく)自己的な欲求が一定数存在してしまうはずだ。
それを理解はしているが納得をしていない俺は、「ウサン臭いと、インチキだ」と払い除けたいと考えてた。
昔の話だ。
しかしながら、今は少し違う。
自己開示的なコミュニケーションは、「自身の肉の一部を抉り相手に預ける」行為だと考えるようになった。
それは心臓を預けるかのような、一種の自傷行為であり、心理的な交換行為なのだ。
もし相手が拒絶すれば、預けた肉は腐敗し抉られた自分の一部は再生しないだろう。
しかし相手が許容すれば、預けた肉を共有し一心同体とでもいうべき状況へ昇華する。
それは恐らく素敵なことなのだろうと考えるようになった。
しかし以下の必要十分条件がある。
・預けるものの価値を、自身の思うそれと、相手の考えるそれを等価に調整しなければ発生できない。
・抉られ預けた肉の一部を受け止める同意が必要不可欠。
そうした、許容の働く慎重性が環境として揃って初めて成り立つ。
上記3点に解答を完了した上で、自分が思う結論を述べてみようと思う。
特に最終解答の②につき、本当の意味での自己開示的コミュニケーションは、設定された条件下でのみ使用が許された行為であり、決して多用してはならないものだ。
それを多用しようものなら、それはたちまちいち技術へ伏し、交換可能性を帯び、無味乾燥な世界へ消失してしまうのだろう。
そんなことを考えてみた。
読み返しても臭くて敵わない文章になってしまったな。