ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑で捕まえて

映画「ライ麦畑で出会ったら」の劇場は赤いハンチング帽を被り、自分こそがホールデン・コールフィールドだと主張したい人間達で賑わっていた。

エンドロールの幕が降りた時には啜り泣いている声も漏れていて、同一視する人間は今でも居ることを思い知らされたわけで、少し自分の中でも振り返ってみようと。

ライ麦畑で捕まえて」

永遠の青春小説、はぐれ者のバイブル。要人の殺害者がこぞって愛読書としていたことからも思想誘導効能を真面目に議論された金字塔。

野崎孝に続き村上春樹が翻訳に挑み、また攻殻機動隊などの作品のモチーフとなり、今も色褪せることなく賑やかせるエンターテイメント。

内容とすれば、家出少年が街中を歩き回る様子を一人称形式で語るというシンプルなもので、派手なアクシデントは介在しない。

物語の力強さで押していくのではなく、繊細な心情の動きや矛盾する行動様式、それを代表するスラング的文体が、思春期の体系に合致性が深く、普遍的な共感に価値が置かれている(のだと思う)。

ある書評だと、最後フィービーを止めることを選択した主人公は大人になり「ライ麦畑の守り人(意訳)」になることを覚悟したのだと論じていた。

最後、カウセリングとも取れる様子が描かれ更生の道を辿っていることからも、子供でい続けることを放棄したことは、少なくとも読み取れるので間違いではない気がする。

が、あまりピンと来ない。

この作品は読み手の状況によって受け取り方が異なり、子供の時分に読んでこそ価値を見出せるとも言われる。

そこで恐縮ながら自分語りから整理してみることにする。

僕がこの本を最初に手に取ったのは恐らく高校生の頃だが、その時は特に感想なんて持たなかったので割愛する。

その次に読んだのが大学生の頃、バイトにサークルに勉強に追いかけ回され、自暴自棄にもなりかけていた環境下で、逃げ道の模索の為、攻殻機動隊を手掛かりに辿り着いていた。

気分転換に神戸に小旅行に出掛ける最中持ち歩き、自分とホールデンを重ね悦に浸り、神戸港が覗くメリケンパークに攻殻機動隊の登場人物を真似て書物を投げ込むのが最高にクールなんじゃないかと本気で思っていた痛々しさが懐かしい。

状況からして、大学的コミュニティに上手には合致できないと挫折し、結果も伴わない無駄な足掻きに失望した様は、主人公の舐めた辛酸と合致している(と思い込んでいた)。

「あなたは全部が全部デタラメだと思い込んでは現実から逃げているのよ」

「僕は目と耳を閉じて口を噤み、孤独に暮らそうと考えたんだ」

上記のセリフは当時は本当にクリーンヒットしていて、ロクでもないインチキばかりに嫌気が刺し(たと思い込んで)、どこかに桃源郷があるんじゃないかと夢想したもので。

リンク性を話した上で、-…俺はこれまできちんとホールデンコールフィールドを演じてしまったと謳った上で下段に続く。

では理想郷で何がしたいのか、という問いに対してホールデン・コールフィールドは下記のように答える。

「とにかくね、僕は、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。

(中略)

で、僕は危ない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子を捕まえることなんだ-つまり、子供たちは走っているときにどこを通ってるかなんてみやしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。

(中略)

ライ麦畑のつかまえ役、そういったものになりたいんだよ。」

(白水社野崎孝訳、269頁)

ここは抽象性が高い。と同時に重要性も高い。これまで、死んだ弟、慕う兄や教師、シスターや売春婦に同情にも似た憐憫を向けてきた主人公の行動の原点だ。

同時に我こそはホールデン・コールフィールドの理解者であると願うのであれば、最終目的地も僕自身も赴かねばならない。

「自分と同様、社会不適合者に堕ちないよう抑制を働かせることが自分にとってのイノセンス(自然発生的な願望)だ。」という解釈であれば、妹の逸脱を止めたことが大人への一歩と唱える冒頭の主張は正しい。

これを仮定した際には、ライ麦畑は現実と倒置関係を得る。

しかし(証明関係は面倒なので割愛するが)、ライ麦畑はより幻想性を伴うはずである。むしろライ麦畑はイノセンスが発露した桃源郷の舞台であり、そこから堕ちることは、 魑魅魍魎のインチキが渦巻く現実へ引き戻すことにある。他人が反抗期を続けられるよう務めることこそが自身に課せられた使命だという論理に帰結する。

メタ的な視点からであれば、その試みは成功し、ジョン・F・ケネディの頭蓋骨を弾丸で通過するに至るまでに他人のイノセントな世界を守り切ったこととなる(どこを撃ち抜いたかまでは覚えてない)。

他人のイノセントワールドには興味があまり持てない。むしろイノセントな世界観の集合知が社会という装置の現れであるとリヴァイアサンから続く社会契約論の歴史を大学で学んだ身であるので、現実の否定=イノセントの集合知の否定、だと学ぶんだよバカタレがと言われ続けてきた背景がある。大統領のおっさんを仕留めたのはイノセントの実現とかいう目的からは大きく的外れな行為だと否定すべきだ。

よって、正しさは捨てよう。

中二病的精神病患者の倒錯になにを求めているんだ俺は(この表現は語弊を招くが、ホールデン風にする為だとご容赦を)、と開き直ろう。所詮、俺はホールデン・コールフィールドではないのだ。この書物の価値を他に見据えよう。

自分が信ずるイノセントな世界観的には、たぶんなにを大切かを選択することこそが「ライ麦畑の守り人」なのだろう。

死んだ弟やら崇拝する兄やらワンチャンヤレるかもな女の子達やらその他学校関係の狭いコミュニティなんてものはクッソどうでもいい。

劣等感もニヒリズムも性欲も失望もクッソどうでもいい。

妹なんだと。

コイツだけは俺がしっかり手を握ってなくちゃならねぇと。

そう決断したホールデンの姿は、決して褒められる経緯(結果論的に靡いてくれるのが妹だけだったとかいう情けない状況)でなかったとしても、とても立派なんじゃないかと、どこか思う訳で。

現実から逃れられないのはこの主人公の辿る道でもあるが、諦観と絶望しかないと嘯くセカイ系あるあるのディストピアではなく、選択と覚悟の物語に僕個人は価値を置く。

後日談的な形式を取ったのは、逃避は手段であって目的ではないのだと訴えたいがためなのだ。

逃げ惑う人生の中で、いろんなものを整理し決断できるのであれば、それは実りのあるものなんだろうねと、ちょっとばかし思う。

正直、誤魔化し誤魔化しで得た結果ではあるけれど、そんな感じで今日は満足したい。