ジョンソンRの徒然日記

よつばと!に癒しを求めるクソオタク供へ

「できることとできないことがあるんだからね」。

 転職のタイミングと母親が癌に罹患したそれとが重なった。ステージ3と聞けば危機感に襲われるが、症状の子宮体癌は適切な処置を施せば5年間での生存率は70%弱である。既に罹患箇所は手術し切除した後であり、化学療法と薬物治療による点滴を繰り返すことで再発は防止できる可能性が高いのだという。本人の口からは直接語られることはなく、ネットで調べて得られた情報だが、少なくとも本人からは治る病気なのだと念を押されている。

 

 術後の影響で既に毛髪は抜けており、帰省してた際に寝室に飾ったいくつかの鬘が戸棚に置かれていた。戸惑った様子を見てか、いくつかの種類で揃えていると母親から少し困った笑みで説明された。こちらの種類だと色が明るすぎる、こちらの種類だと髪の長さが目に当たる、と悩みを打ち明けるように会話を続けた。入浴後も鬘を取らずにタオルで頭を巻きながら。

 

 ゴールデンウィークには既に発覚し手術は完了しているようだ。推量系で記載するのも知ったのは事後のことだったからだ。個人的な事情によるものだからこそ、退職することを特に相談することなく進めていたが、いよいよ最終出勤日間際の段になって報告すると、変わりに罹患していることを伝えられた。自分の緊張感が新事実の衝撃で上回った。7月には弟の結婚式が控えている時節だったのもあり、父親以外にはまだ伝えられていないのだという。なんと答えていいのか分からなくなった。

 

 転職先はまだ決定していなかったが活動を始めていた。関東で就業しているが、実家は石川県にある。Uターンを考えていなかったからこそ、酷く混乱した。父親の仕事柄、転勤転校を繰り返していた。石川県で過ごしたのは転校した中学2年生から予備校まで、大学は関西で一人暮らしを始めたため、人生の中で石川県で過ごした時期は短い。故郷としてのマインドセットは自分の中で固まっていなかった。構築した人間関係のリセットは自分の中で強い抵抗感があり、転勤転校するその都度、それを強いてくる父親に苛立ちを覚えていた。致し方なかった事情は汲み取れるし、むしろそうあるべきという正論は耳障りの良いものだが、当時、幼少の頃の僕の感情が顔を出す。大袈裟なのかもしれないが、それだけ当時の僕には深刻で真剣なものだった、それを今でも許してくれないものたらしめている。
 伝統的な価値観を重んじる父親は長男として地元に戻るよう説得された。大それた土地があるわけでも、家業があるわけでもない。これまで振り回された自分の人生から、また強いてくるのかと厳しく反感を示した。それから父親は直接自分に対して意見を言うことを避けるようになった。


 実家に戻る選択肢を積極的に取りたくはない、少なくともそれを選ぶことになったとしても父親の影響での帰結はしたくはない。自分で自分がいる環境を選べるようになりたい、と大学を卒業する間際、強く願った。

 母親の症状を聞いたときに、選択肢として石川県が再度、自分の人生に現れた。正直に母親に聞いた。白状しろとでも言わんばかりに。あまり余裕がないと言い訳で自身を許されようとしながら。母親からは自分の好きなようにしていいんだと口を添えた。


 母親は生来的に難聴の障がいを抱えた障がい者だ。手話こそ使わないものの、口の動きから言葉を読み取り、また筆談で会話を成立させた。だから母親とのコミュニケーションに電話の手段は存在しない。遠く離れた今や、LINEに紡がれる一言一句が全てだった。声から感じ取れるニュアンスや雰囲気で感じ取れるものを排除して、そこから含みや言わんとする内容を精一杯吸収する。
 安心させたいが為に既に内定を頂いている企業はあるのだと伝えた。事実ではあったが、希望とは異なっていたのが内心だ。これもある、あれもあるんだと一度言葉を繋いだら止まらなくなった。地元の会社も選考中だから、望むのであれば言ってくれればいいと伝えた。けれども、母親は好きにしていいのだと繰り返し書き続けた。けれども、続けてこうも言った。

「できることとできないことがあるんだからね」。

 

 

 転職活動を続けて急に石川県への方針転換をすることは容易ではなかった。他地域と比較すれば金銭面は勿論だが、業務内容も異なっていた。これからのキャリアパスも当然異なる。志向していたものと異なる言葉を並べることに澱みを隠せず、あからさまに興味が持てないことが溢れてしまう自身の振舞に苛立った。一方で、見送りとなる連絡に安堵している自分もいた。とある連絡には「覚悟が足りない」といった記載があるが、その通りなのだろうなと思うに至った。何者かになりたい自分、かつての自分の亡霊。自分の何かが邪魔しているんだろうなとも思えた。暫く続けて、自己肯定感にも限界がつき、誘ってくれていた企業への就業希望を伝える連絡を担当者へ送付した。

 それから長く地元に帰省した。祖母が高齢者鬱の症状が出ており、普段は父親が毎晩サポートに向かっていたが、所用で代理で対応して欲しいとのことだった。年末ぶりに石川県へ足を運ぶこととなった。祖母は趣味の手芸や料理から、地域の集まりにも参加するなど、祖父が亡くなってからも積極的な女性だったが、片目の失明や、昨今のコロナウイルスの情勢からも上手く叶わず、それが胃腸炎などの症状に現れたという。少し休みがちな様子や痩せた身体から、何かできることはないんだろうかと手探っていた。服用するタイミングが異なる薬の組み合わせが難しいとのことだったから、分かりやすいように配置を変えた。あまり食が進まないとのことだったので、「山形の出汁」という茄子と胡瓜を食べやすいように微塵切りにして大葉と茗荷を添えた料理を作った。いずれも喜んでくれた。何泊かを続けて、できることを探していった。

 

 同時期に母親も点滴を控えていた。入院となる前に点滴施術たりえる体調か確認の為の血液検査がある。血液検査での白血球数が所定以下の数値で検出されたちめ、延長、再調整となった。癌施術の後ではよくあることのそうだ。医師との面談に立ち会うことはできなかったが、母親の言葉を聞いた後に、ネットで検索をかけ裏を取った。お盆明けに再調整の日程が決まった。検査の日にはいつも僕が車を動かすことにしていた。実家には外車と軽自動車の2台あったが、軽自動車を自分が自由に動かしていいものとしてあてがわれていた。アクセルに遊びが多いが、迎えに行くたびに徐々に自身の身体の一部として慣らしていった。


 点滴となり入院となれば、一泊二日となる。父親は昔から家事は不得手だったが、洗濯とアイロンがけはするようになったようだが、それ以外には門外漢だ。3日も家事を放置する訳にはいかないので、僕がその間の担当を務める必要があった。また、母親自身のタブレットとしてsurfaceを所持していたが院内のネット環境が微弱であるため、GEOで時間を潰す為のDVDと、県内で新設した図書館にて借りた本をトランクケースに納めた。医か少しでも確かな情報を得たいと医師から話を聞きたいと願ったが、術後で既に説明済みでもあり、またとにかく迎えてくれるだけでいいから、という母親からやんわりと断りの言葉からもそれは叶わなかった。だからこそただその場所へ向かい、そして見送って終わった。
 心が落ち着かないこともあり、母親が入院の為本を借りたという図書館へ足を運んだ。県内では話題になっている新設された図書館だ。21世紀美術館や金沢海みらい図書館に代表されるように、石川県特有とでもいうべきか、世界史の参考書にでも掲載されているような、ドーム型に席が配置され、意匠の凝らした椅子が添えられ、地図がないと分からないような分布図の、特徴ある現代的で印象的なデザインで構築されていた。その中の一席に身を預けて、適当に選んだ図書へ目をやれど、文字が目を通せど頭をよぎらない。考えをまとめようと目を閉じても、どこにも辿り着かなかった。無力さからくる、虚しさと悔しさが身体を支配した時に、妙な痺れが流れた。とにかくこの気持ちを紛らわしたかった。一本でも多く煙草を吸いたくなって、図書館から退出しコンビニまで車を走らせた。けれども、何本吸っても心臓の音は鳴り止まず、煙草の箱を握り潰して投げ散らかした。母親は煙草の匂いが嫌いだった。

 

 父親との会話は日頃から乏しかったが、その日はいつも以上に言葉を選んだ。元々上手く気持ちを言葉に表明することを不得手とした人間だった。それが奏じて、口喧嘩に発展することも多かった。けれども、行動原理は常に周囲の人間に向けられていた。不器用なだけだったのだ。母親も、彼は仕事は上手く回せていないのではないかと苦言を呈したこともあったが、それを聞いた時に自分も父親に似たところがあるのだろうと思った。現在。父親にとって自身の母となる祖母が体調を崩し、また妻となる母親が癌に罹患し、彼が抱えるものは大きいように思える。59歳となって再就職の時期も迫る中、備えて10年間挑んだ資格試験の結果も功を奏ずることがなく、自身のことも確証を得られないままに。かつて自分を殴り飛ばした父の手が少し小さく思えた。小学生の時は理不尽に手を出されてたなと遠い記憶に気持ちを配らせたが、それも大人になって自分もしてきたことを思い出すと、苦笑以外の表情筋の行く末が分からなかった。

 

 無事退院し、祖母も医師から回復の兆しが認められた。僕自身も就業にかける準備があるため、関東へ戻った。感情を整理したいという気持ちが勝ったのが、本音かもしれないが、分からない。

 

 

 7月、弟の結婚式が大阪で催された。たびたび喧嘩はしていたものの、中学2年生の喧嘩を境にあまり親しく会話をすることがなくなった。僕が中学2年生は石川県へ転校転勤した年であり、そのコミュニティに上手く馴染むことができず、その影響が少なからず弟にも回っていた。その不満が弟の中にはあったのだろう。自身のプライドとの折り合いがつかず、それを自身の欠点として認めることができなかった。それが起因してかは分からないが、高校は異なる学校へ進路を決めることになる。弟は楽観的で、周囲を巻き込めるだけの魅力が生来的に備わっていた。結婚式に集まった来賓は戯けた笑顔でこれぞ人生で最大の幸福と言わんばかりに振る舞っていた。妻として迎えた女性やその親族も、互いに声を掛け合いながら祝福を願っていた。我々どもの親族は、どちらかというとお堅く、静かな家系であって、あまりその場の雰囲気には溶け込むことはなかった。要するに異なるコミュニティの会合の場面となり、我々どもの親族と、この世の春を謳歌せんとばかりの人間が集まっているようだった。父親はいつも以上に言葉足らずになっており、婿側の親族が酒を注ぎにきても素気ない態度でしか返せていなかった。悪気はないのだけで場に慣れていないのだろう。
 母親は笑顔を常に浮かべていた。他人と接点を持つ場面で、上手く場の状況が理解できていない時に出る、彼女の癖だ。難聴といっても全く聞き取れないわけではなく、声の振動や口の形で言葉を読み取れるのだが、コロナウイルスの関係もありマスク着用のままであれば、読唇術も上手い活用の機会が失われてしまう。恥ずかしい話だが、この場面になるまで思い出すことがなかった。結婚式の案内書面を指差して、いまどのシチュエーションにあるのかを式の運営を邪魔しない程度に伝え続けた。時折見せる母親の潤んだ瞳に言葉が詰まった。この人は、息子の祝福を、この場にいる誰よりも喜んでいるのだと分かった。両親への感謝を言い渡す場面では、弟が気を効かせて、事前に原稿を母親に渡していた。それは、素直に素敵だった。僕の人生で1番綺麗な光景だった。
 写真撮影の時間が設けられた。友人達がこぞって夫妻の元に駆け寄るが、母親は和かにしており、父親ははにかんでいた。たぶん誰よりもあそこに駆けつけたいのはこの人なんだと確証があった。だけれども邪魔できないとでも思えたのか、上手く口に出せないのだろうか。こんなときに手を伸ばせないでどうするんだと膝を打った。賑わう輪に挟み込んで母親に順番を分けてくるるように頼み込んだ。自前のミラーレスのカメラを持ってくるんだったと後悔した。いや、一眼レフでもなんでもなんでも、1番上等なものをヨドバシカメラで掴んでくるんだったと後悔した。周囲は母親との撮影に協力してくれた。偏見を持って構えていたが、心優しい人達だった。家族での写真を撮ることができて、本当に良かった。

 


「できることとできないことがあるんだからね」。
 母親はなにかを諦めてきたのだろうか。
 母親は大学で教員免許の資格を取得しているが、教職に身を置くことはなかった。ギターを購入していたが、僕達の前で演奏することはなかった。大学を選択するときも地元から離れることも私立を選択することも、浪人するものなら働く選択することしか、用意されていなかった。僕から見れば祖母は優しい人間だったが、当時の価値観として障がいを持って生まれた娘に、家計的な制限があれど家庭で守られて欲しいと願ったのだとろうが、母親にとって、やりたいこともしたいことも、きっとあったのだろうなと思えた。たぶん多くのものを諦めてきたのだろうなと思った。
 だけれども、僕も含めて、息子のことはきちんと愛してくれたのだろうと信じられる。母親の今の願いは、自分の子供が幸せであることなんだろう。自分にはできなかった選択を、自分の子供に与えることが
 ズルいことも可愛くないことも持ち合わせていたけれども、子供達のことがなにより大事だったんだろうな。
 自然と母親のことを想うと涙が溢れて留まらない。なんでだろう。

 

 誘われた会社は中部支店での採用だった。新幹線で2時間かからず、車で3時間強。同じ中部地域ということもあり、まだ関東より石川県へ距離が近い。これから月に一回は地元に戻ろうと思った。そしていつか、ちゃんと石川県を地元と言えるように、帰れる場所になれるようになろうと思った。そしていつか母親に、そして父親にも恩返しができるようになろうと、今は思う。それだけは諦めてほしくない。

どうしようもなく嘘つきの君に

☆☆☆
 テレフォンカード。財布を新調し、カード類の内容物を入れ替えのため整理した際に見つけた。携帯電話が普及した昨今では、旧世代の遺物といっていい代物だ。あまりの使用頻度の低さを、40度以上の度数の蓄えとなって現れており、ほとんど新品といっていい状態にあった。小学校に入学した時に渡されて以来、ずっと肌身離さずに持ち続けた。転校を繰り返してきた自らの履歴として、数多くの自宅であった電話番号がそこに記されていた。自身の居場所を忘れまいとする健気さが、どうやら自身にもあったらしい。
 そのカードをただ眺めている自分に気がついた。そして何を考えてか、公衆電話のボックスに籠もり、そのひとつにダイヤルを回してみた。虚しい機械音だけが耳に響いた。何かを口にしかけたけれども、何を口にすればいいのかわからなかった。虚しい機械音だけがその場に残った。
 
☆☆☆
 当時の僕は非常にややこしい精神状況に身を置いていて、空気を吸うことを喉元が拒絶して、常に喘息のような息苦しさを覚えていたし、罪悪感から劣等感、後悔や懺悔など、あらゆるネガティブな感情を贅沢なまでに享受していた。最大公約数的にまとめあげれば、要するに、死にたいという欲求で頭がいっぱいだった。原因も分からないものだから、解決の糸口は見つからず、ただ時間が解決してくれることを祈り続けた。専門的な機関にかかれば何かしらの病名を授けてくれたことだろうけれども、そんな余裕すら持ち合わせていなかったし、誰かに打ち明けることすらままならなかった。打ち明けることができるような人もいなかった。
根底には、居場所がないと感じていたことに大きくあるのだと思う。父親の仕事の関係で転校を繰り返しては、様々な環境に身を置き、離れていった。現在のようにネットの中で関係性を維持する機会にも恵まれなかった。物理的に離れた交友関係は次第に薄れていった。その度に積み上げてきたものを蔑ろになるようで、いつか消えてしまうものに何ひとつ安心できないと怯えた。どうせいなくなってしまうのだからと何事にも距離を置く習慣を、誤った処世術として身に付けてしまった。俯瞰して傍観し、諦観し、孤独となった。結果、他人を求めざるをえない精神状況に追い込まれた。至極真っ当な起承転結を経たに過ぎない。その頃にはもう他人の求め方なんて分からなくなっていた。他人を求めていいだけの、他人に自身の不始末を埋め合わせさせてもいいだけの理由なんて分からなくなっていた。依存を肯定すれば救われる領域は一定あるのだろう。しかしながら当時の自分が逃げ込んだ依存は、それを肯定的に評価されるものだとはどうしても思いたくなかった。手を伸ばせば届くものに縋っただ毛の自分を嫌悪できるだけの余地を残しておきかった。振り出しに戻ったからこそ、贋作ではなく、本物に恋焦がれてしまった。
当時の自身の状況はあくまで否定すべきこととして筆を執っている。当時の精神状況に近付ける努力を注ぎながらも、やはりリンクできるもの、できないものは自身の中で認めることができた。これが成長と呼ばれるものなのか、或いは捨ててしまってはいけないものだったのかは分からない。ただ、当時否定したいと願い続け、始末できずに残って染み付いてしまっている領域は、自身の存在証明足り得てしまっている。否定しつつも、確認することに目的を据えたこの取組は一般論ではなく、限りなく個別論だ。自慰行為以外の何物でもないのかもしれないが、少なくとも自慰行為足り得る程度の効能は期待したい。
 
☆☆☆
 足の甲には重すぎるくらい雪が積もりきっていて、縫合の甘い安物の革の隙間から溢れて、今年の冬の厳しさを物語ってくる。そのことに不快感を覚えるにはあまりに日常生活に溶け込んでいて、特別悪態を吐こうという気にはなれなかった。霞んだ景色に浮かぶ光の束と、誰かが残した足跡を地図代わりに、足を文字通り滑らせていた。
 1月も終わろうという段で、服装も一層深まる反面、大学受験を目前にした僕たちは高校生の身分を脱ぎ去り、新しい環境へ身を投じようとしていた。比較的自由の猶予を設けられた期間に突入し、それぞれがそれぞれ、自身が自身にとってベストな状況へ調整していた。集団行動に馴染めない僕自身は、自宅から徒歩で賄える半径のみを生活範囲と定めた。理由はそれ以外にも、逃げ出せる場所を確保できる範囲でしかその時分には行動できる余裕がなかったことにあった。成績も芳しくなかったこともあり、おそらく浪人期間を要することになるのだろうという予感もあったし、経済的負担に対する親への申し訳なさ以外に、学業に関しては苦慮していなかった。そんなことは些細なこととすら思えた。幸いなことに、その範囲内にはいくつか依存できるだけの友人が存在したし、縋る思いで彼らと時間を共有していた。手段として適切ではなかったにせよ、そうした毎日を送ること以外には選びようがなかった。
 依存先として見繕った男は強く自身の世界を確立させて、自身の築いた前提をもとに理性を貫く潔さと、許容性の低い排他性を両輪の軸に人生を運営していた。持ち前の傲慢さで容赦なく裁くことを躊躇わない彼の姿勢には怯えを感じてはいたものの、その刃で切られることすら望んでいた当時の自分には適任だった。趣味も趣向も合致性よりも不合致性の方が高かったけれど、不思議と会話にはこまらず、ほとんど居候といっていいぐらいには、彼の部屋へ行き通っていた。通って特別何かする訳でもない、目的もない。彼の部屋に蓄積されたゲームや漫画を消費し、無味に時間を消費することの他、すべきことなんて見当たらなかった。このルーティンの中には飼育している犬の散歩も含まれていた。人見知りな性格までも、長く居座る僕には寄り添ってくれるようになり、首紐の手綱を握る事を許してくれるまでになった。何処かに行きたいと吠えるのであれば、どこであろうと連れていった。自分を必要としてくれていると錯覚できた。慰み物として利用しまうことへの罪悪感は色濃く染み付いていた。その日も忙しなく身体を動かし、可愛らしい御機嫌な表情を覗かせて、それが散歩の開始の合図になった。
 石川の冬は酷くどんよりとしていて、雪だか霰だかで支配されているから、おかけでどこまでも灰色で、何の模様も映さない。きっと太陽も月も太陽もどこかに消えてしまったのだと思える程に、この閑静な新興住宅地域では一面版で押されたような景色が続き、始まりも終わりも見えやしない。記憶を頼りに無心で前を歩いていくしかない。新雪に刻んだ自分の足跡をまっすぐ見られないのは、そこになにかを重ねてしまうからだろうか。
 間を挟まれた犬の遥か頭上には我々がいて、訳もなく沈黙が続くのにも不自然だし、当然我々が置かれた立場から、将来の希望や不安などに話題は落ち着いた。少なくとも前方に向けられた内容の言葉に、僕は上手く合わせられなかった。一般論ですら露ほども聞きたくなかった。思考の濁流には死以外住み着いていなかった。どうやって当たり障りのない内容へスライドさせ心の平穏を取り戻そうか、工夫もなにもないまま継続性を無視して言葉をぶつけた。そんな僕の内心を勘繰ってか、様々な言い訳を一身に背負わせた犬は、不機嫌な様子をリード越しに伝えてきたけれど無視し続けた。思考がよぎる余裕を与えずに、少しでも深く見つめることから逃げたかった。強くマフラーを締め直したのは寒さからだけではなかった。それでも沈黙には身を埋めたくなくて、必死に会話の綱渡りに食らいついた。死への羨望がこの身を捉えられないようにどこかに隠れていたかった。 
 極寒に耐えかねて暖を取ろうと照らされた灯りを頼りに自動販売機の前に立った。サンプルの前に引かれたスライドガラスすら雪に覆われていて、上着の裾で払って購入物を吟味した。カフェインの摂取は不安を増加してしまうのではないか、そんな無茶苦茶な迷信にすら振り回されていたから、とびっきり甘い飲み物を選択した。出鱈目に不味くて、川に投げ捨て溜息を吐いた。流れていく缶にも雪が積もり、景色と同化していずれ見えなくなった。
 「例えば、例えばではあるのだけれど」と何の脈絡もなく言葉を弾いた。なんの算段もなくて、言ってるそばから後悔した。しかしながら、だって仕方のない、深く考えることを放棄してしまったのだからと、半ば自暴自棄に、自嘲気味に、そのまま続けることにした。
 「恋人でも、友人でも、或いは通りすがりの見知らぬ人でも構わない。自分の人生を確かに覚えていてくれて、見ていてくれて、…いや違うなぁ。ただ誰かが側にいてくれるだけで、それだけで幸せだなと思える瞬間があったとしたら、それが人生のテッペンなんじゃないかって思えないかな。」
 俯きながら吐き出した言葉は力無くそのまま地面に溢れて消えてしまいそうだった。実際風の音にも遮られていたし、十全に伝達できなかったんじゃないかとも思う。
 「なんだそれ、じゃあアイドルにでもなればいいじゃないか。」
 と小馬鹿な笑いで突つかれた。今から応募するには遅すぎる気もするがな、とも漏らした。それにムッとするわけでもなくただフラットに繋げた。
 「そういうことじゃないんだ。転勤族に生まれた俺は誰かと一貫して共有するって機会が他人より少なかったりするのかなって。」
 うーん…としばらく間を置いてから、「俺にはよく分からないな。この場所で生まれて、今までもずっと生活しているからな。これから先の事は分からないけれど、たぶん居場所のひとつとしてカウントし続けられるだけの過去は積んだつもりだよ。」とおざなりな内容で閉じられた。
彼の買ったホットココアを一口貰い、一息ついた。
 『今尚苛まれているのは結局のところ、そういった類のものなんだ。自分は何かを積み上げることなんてできなくて、空っぽなんじゃないかって怖くなるんだ。』『自分は何処にも根付いてなんていない根無し草で、独りぼっちで、誰にも必要とされてなくて、それが堪らなく苦しいんだ。』そんなセリフを吐ければどれだけいいかと思う反面、溢れそうになる弱音をどういうわけか必死に止めた。同情を誘ってもぎとった言葉に何の価値だってない。
 「そうだよな、隣の芝生が青く見えるだけかもしれない。だけれど、どこか羨ましいんだよ。ある程度自分で環境を選んでいいなんて言われたこの先の状況で、真っ先に思ったのが、そんなことだったりするんだ。」
 「そんなこともあるんだな。くだらない。」
 「そうだよ、だから、ただの感想なんだ。」
どうにか表現を曖昧に、間接的に、抽象性を高めて、意味も内容も薄めた。どこにも響かずに空振りだけは繰り返した。ミルクココアの缶の飲み口から湯気が立ち、積雪が蓋をした。所在なさげに傘をクルクルと回してながら、納得がいかずにピシャリと流れを振り返った。
「いったいなんだってこんな話をしているんだ。こんな無為なこといってたって仕方ないじゃないか。」
「その通りだな。」
その通りだった。口の中がこそばゆく、歯の付け根が乾く。緊張してるわけでもないが、どこか居心地の悪さを覚えている。取捨選択が上手く機能してくれない。海馬あたりが故障したのかもしれない。
「だから、他の何かに夢想してしまうことをどこかで諦めなきゃいけないんじゃないか。」
「自分に期待してしまってるってことなのかな。」
うーん‥‥と曇天の空を眺めながら、彼は自身の考えを述べた。
「否が応でも、18年間生きてきてしまったんだ。時間が経過してしまった以上、何かしら結果が生じてしまうし、その結果の差異こそがその人だと、他所からは見受けられてしまうものさ。その現実と理想のギャップを認められないんじゃないか。」
「現実を確認できるための存在として、或いはその溝を埋め合わせる為に他人を求めているんじゃないかって、そういうことかな。」
「つまり、自分にも、他人にも期待が過ぎてるんじゃないか。」
「たぶん、いくつか当てはまっていると思う。」
強がりだなと、彼は考えが一部認められ、一部否定されたことに満足のいかない複雑な表情を浮かべた。彼の言っていることは大まかには理解できるが、納得はいかなかった。反発の気持ちもいくらかあるが、芯を食っているわけではない。簡易に他人と繋がれたように錯覚し、だからこそ比較できてしまう環境下に身を置いている以上、往々にして覚える劣等感だろうし、僕自身の発言もその範疇だと片付けたのだろう。これまでの発言を整理すればその仮説に結びつくのも無理はないし、自分の表現力の至らなさに原因があるのだから、無闇に無理解の責を彼に求めようとは思わなかった。だが、誤解の溝を無理に埋めるために思考しようとすれば、自分の窮状へ直視しなければならず、それは可能な限り避けたい事態でもあった。その窮状がすくう洞窟へ潜って無事生きて帰れるだけの保障がない。そのまま死ぬ事を選びかねない。それでも絞り出そうとするこの気力は何処からくるのだろうか。泥臭い負けず嫌いの性質からか、それとも彼の言うように他人に期待しているからか。
「相対性と絶対性でいえば、絶対性に分類できるなにかのように思うんだ。そんなものはないって頭では分かってはいるんだけれども、どうしても信じてしまう宝島のようなものなんだ。」
「なら、絶対性のない現実を素直に受け止めることだな」
 絶対的なものなどないと気付いたのはいつのころからだったろうか。その環境環境に求められた偏差的な曖昧な物差しも、排他性に結びつけられはするものの、寄り辺としてまでは盤石に機能してくれない。環境からの要求を無視できるだけの自身を確立できるかが試されている社会であり、選択性の余地が現在にはいくらか確保されていること自体は、幸福でもあり、不安にも繋がってしまう二律背反の関係性にある。僕は幼さ故にその意味を履き違えてしまっていて、その誤解が当時の状況を生み出してしまっている。僕はその代償にようやく気付いて怖気づいる。その事実から逃れるように、社会主義体制下や、封建制度カースト制、世襲制の身分階級が生来的に確立された世界へどこか思考を逃避させた。意思を度外視した、閉鎖の裏切らない条件設定が、何よりも心地良いのではないかという妄念が襲ってくる。鍬を両手に原始的で直接的な、生存と連結された人生に羨望を感じずにはいられなかった。自由意志が何よりも尊いなんて教科書の謳い文句が憎い。選択できるだけの自信をどこで培えればいいというのか。意思に支えられた自身の人生に否定的の評価以外を、今はくだせない精神状況だった。
「そこまでの自信を、一体どうして。」
「面倒くさいことを考えるなお前。…正しいとかじゃないんだぜ。楽しい方を選べよ。」
「最近貸したバガボンドでそんなセリフあったよな」
「バレたか。でもそんなもんじゃないか?俺は今が楽しいよ。」
肯定の基盤が自信にあるというのなら、それはどこから生じるのだろう。自身の意思をまっすぐ貫いてもいいなんて、一体どうやって思えるのだろう。手放しのこの世界に対して、一体何を羅針盤として、足を進めるのだろう。そんなことすらわからないし、自分の居場所すらわからなかった。喜怒哀楽に委ねてもいいと言えるだけの真っ当さを自分の中で認めることができない、自分が楽しいと、悲しいと、あるいは美しいとか、醜いだとか、感じるこの感情は、果たして正しいだろうか。自分が赤だと認識しているものが実は青色だと了承しているんじゃないか、そんなクラシックな恐怖が今も拭えない。
「前提をどこに置けるか、みたいな話な気がする」
「一体なんの話をしているんだ、さっきから。」
 
☆☆☆
 そうして無為に時間が過ぎ、帰り支度を整え、挨拶も程々に玄関の戸を開けた。自宅まで要する5分間。転倒を避ける為に、玄関を抜けれて、テレビのコメンテーターは自分の価値基準が全てと言わんばかりに世論批評を語っているのを見ながら食卓を囲んだ。彼らのいうことは正しいようにも見えるし、間違っているようにも見える。どうにも興味が持てなかったので、適当なタイミングで入浴し、今日の会話を反芻した。意味もなく頭まで潜ってみた。無言が支配している世界には代わりに頭の中の言葉だけが広がった。何か手がかりでもあっただろうかと整理を試みて、案の定、何も見つからない。上がった旨を家族に報告し、自室に戻る。布団の中では羊でもカウントしたり暗記した英単語を反復したり、なるべく何も考えないように作業を続け、意識が朧げになるのを待った。回復の兆しなんてなにも感じられない。おそらくそうした日を、しばらく数珠で繋いだように繰り返すだろう。そうしてこの感情を忘れるまで時間を浪費するのだろう。解決できないのであれば解消を待てばいいんのだ。時間は最大の良薬なのだ、きっとそうに違いない。
 そして事実、そうなった。
 
☆☆☆
 高校の卒業式を終えてから、母親から京都への旅行へ誘われたことがあった。小学生までは一定の頻度で発生していた家族旅行も、弟と共に中学へ進学してからは影を潜めていた。観光地や、美術館、遊園地など、かつては近隣の様々な場所へ連れて行ってくれたものの、それでも母親と2人きりというシチュエーションは今までになかった。直接的に相談したわけではないのだが、母親なりに自分の状況を直感的に察してくれていたのかもしれない。「将来進学するかもしれない大学の見学」と、僕自身身構えなくても良いだけの大義名分も拵えてくれた。もしくは、本当に直接の原因は思うように学力が振るわずにいたことだと考えていたのかもしれない。各校舎とその近隣の観光地へと足を運び、最後には居酒屋で休息をとった。こっそりアルコールを愉しむことも、秘密の共有のようで心が躍った。将来の話へと内容が移った。彼女も教員免許を取得し、教職を志して努力を捧げたものの、自身が生来的に抱える難聴の障がいと、そこに隔たる無理解な現実へ向き合い、夢を諦めたという過去を話した。また自身の友人も、芸術学校へ進学し様々なものを投じたが、結局はその業界を離れてしまったのだと語った。口下手で不器用な性質の父親も、おそらくは自身の望むような人生ではなかったのだろうとも続けた。結ぶ言葉はそこにはなくて、歯切れの悪い進行でその場の会話は途切れた。僕も歯切れの悪い回答だけ残して引き出そうとはしなかった。
 僕自身も絵が好きで、イラストを描き続けていた。人気作品の模写をして、今思えば恥ずかしくなるような自作の物語で漫画のラフの絵も付けたりしていた。真夜中まで明かりを灯して描き続けた様子を見かねて声をかけるのはいつも母親だった。鞄に入った学業用のノートのページには、単語も数式も描かれていなくて、どのページにも似顔絵や模写絵が描かれていた。当時、漫画家になる為の作品が流行っていたこともあり、自分としても将来は漫画家へと表層的には望んでいた。ただ正直なところ、所詮井の中の蛙で、どこか自分の才能に区切りをつけて、その溝に対して努力で埋め合わせられるとは本心では感じられなかった。だから、ただ眺めるだけのスタンスで満足していた。だけれども母親にはまだ純粋に何かを追いかけている息子に見えたのかもしれない。その様子を見かねての言葉だったかもしれない。現実は甘くはないし厳しいけれど、それでも自分に折り合いをつけて、それでも生きていくしかないのよ、という結びを無言に完了させたかったのかもしれない。そんなこと重々承知の小心者の僕には、だからこそ違う意味でその連想を解釈してしまったのだ。僕たちはどこにも逃げられないのだと、呪符の言葉として。別に恨みや妬みも本心からない。ただどこまでも逃げきれないんだと、言われているように感じてしまった、どこまでも重みのある話の連なりだった。どこかで自分自身に期待しているのだと思う、理想郷がどこかにあって、自分はそこに辿り着けるのではないかと、根拠もなく信じていた。だけれどもどこかで決着を見つける事こそが現実的であって、人生なのだと否定をされた気がした。
 
☆☆☆
 万人に開かれたユートピアはないのだ。その幻想に救済は求められない。それでも孤独から逃れたかった。自分でも笑ってしまうくらい。だけれども他人を巻き込んでいいだけの理由がわからなかった。そこに理由を求めることもどこか歪に思えた。だからといって、都合の良さだけを頼りに進んでしまえば、依存の罠にかかってしまうことになるようで嫌悪した。
 他人を求めることに理由を求めてしまうと、それは条件節に結びついてしまう。〇〇があるから、という条件に結びついてしまうと、交換可能性を生じてしまう。個人ではなく、要素に執着してしまうことになる。その環境に自身を馴染ませてしまえば、理由(条件)は次第に曖昧になってくる。やがてそれが唯一無二の存在だと錯覚できるだけの幻想になる。環境にはそういった効能があるように感じた。継続性の全てを否定するわけではないが、蔑ろにされず常に意識を働かせることが最大限求められるべきなのではないか。それは僕には与えられなかったものだった。そのために、他人を求めることに自分自身の解答を常に求められることとなる。交換不可能性を純粋に追求しなければいけない。そんな的外れな強迫観念はいまだに自分の中に巣食い続けている。他人を否定し、自身を肯定するために餌をやり続けた、この醜い化物こそがこの一連の苦境の正体だった。
 この飼い慣らした化物は、理由の動機付けを求めて、いわば言い訳のように前置きをするのではなく、ただ裸の感情だけで動き出せるものことこそが、本当に尊い。条件や要素では片付けられない、チグハグで、出鱈目で、なんの脈絡もだってない、どうしようもなさだけが残った、無様なだけの素直さが何よりも美しい。中島敦の描いた虎を、サリンジャーの求めたイノセントの弾丸で殺すことで、救済の道が開かれるのだ。
 しかしながら、裸の感情を剥き出しにするにはとんでもなく勇気がいる。人間不信が根底にあるのだろう。他人に理解されるはずがない。とても聖人君子な器ではないのだから、自らの醜悪な五臓六腑を露わにするかのようで。だから、勇気を振り絞るには自信が必要だ。自信をどこかで培わなければいけない。自信は肯定された経験の積み重ねから生じるように思うのだけれども、一方で評価は環境によって異なることを強く感じていた。常に相対的で曖昧な判断軸に晒されて、ある環境では肯定され、ある環境では否定され、やがては自分の感覚を信じられなくなった。または、自信とたりえるだけの経験を素直に求めることもできなかった。自己肯定できるだけの機会を根刮ぎ逃避してきた事実もあいまった。何も積みあげたことのない過去の履歴は大きく自分を追い詰めるだけの重みとなった。
 相対性に晒された評価は玉虫色のガラクタのように思える僕が考えたのは、どこかに自己満足の領域を一定確保すべきなのではないかということだった。誰に頼るでもなく、誰に理解されるわけでもなく、自分が許せるだけのものさしが自分の中に築けることが、また何よりも自信につながるのではないかと思うようになった。そ
 自分が自分に許せるだけの価値を纏って、理由が理由たりえない、どうしようもなさに至る時に、初めて他人を求められるのではないだろうか。これが、依存に縋る他逃げ道がなかった僕が至る解決策の全てだった。
 
☆☆☆
 奇しくもこの文章を書いているのは、9年経った当時と同じ季節だった。人付き合いが上手とはいえない自分が皮肉にも営業の業務に着いていた。新規クライアントがメインとなり、無理矢理取ってつけたような理由を頼りに、無謀なアポイントに挑戦し、不自然な笑顔やありもしない愛想を振りまいては、頭を下げる毎日。お世辞にも恵まれた職場とはいえず、残業代未払に疑問を抱かないようにもなり、会ったこともない同僚からの退職の挨拶が節目節目に続くのにも慣れてしまった。尊敬していた上司も転職先を見繕い、関東地域での新規営業担当者が自分一人の状況で、しまいにはパワハラ紛いの事業責任者までが追い出された。業務は増える一方で減ることがない、なんて電車の広告で見る自己啓発本の謳い文句が我が身のこととして降りかかってきた。反面、プライベートな時間まで振り回されまいとスケジュールはなるべく埋めないようになっていった。煩わしい人間関係もないし、心癒されるような環境でもない。3度目の異動が控えた今となっては、あれだけ嫌った転居に何も感じなくなってきた。馴染みのない土地で友人も恋人もいないし、あまり積極的にもなれない。S N Sの近況報告には、学生時代とは異なる様相を見せ、結婚や出産、目標への挑戦などの投稿が続くようになった。苦難はあれど確かな人生を送っているように思えた。僕はさして目標も目的もなく、履歴にはただ空白ばかりが目立ち、交友関係も趣味も能力値も、総じて過去培った、貯蓄とも言えるべきガラクタを消費し続けるばかりだ。それらも徐々に擦り減り、やがて自分に残されたものはゼロになるだろう。環境に慣らされ、必要な感情を蔑ろにして日々を浪費する、かつて徹底して否定したものへ順調に成り果てている。
 35歳が人生のデッドラインだと、最近読んだ小説に描かれていた内容は27歳の自分には無視できないだけの脅迫となっていた。このまま現状維持を求めれば、きっと自己嫌悪の波から今度こそ逃げきれなくなるだろう。モラトリアムは既に完了しているというのに、斜に構えた態度で誤魔化すにも、選択できない愚かしさにも、そろそろ寿命がきている。かつての自分の言葉が呪いとなって降りかかる。自分の中で定めたあるべき理想を裏切るまいと意固地になっているだけなのかもしれない。青臭いことを吐いていた当時の自分は馬鹿だったと切り捨てることもできるのだろうけれども、自分に嘘を許すだけの寛容性すら成熟させられなかった。
 貯まった仕事を消化しようと駆け込んだ2階に位置する喫茶店はいつも以上に寂寥としていた。クリスマスに興じた繁華街は灯が絶えず輝き、週半ばの平日だというのに人並みは絶えることを忘れたようだった。手を繋いだ恋仲の若者、サンタの衣装を纏った店員からケーキを受け取る仕事終わりの婦人など、十人十色の様相を見せる景色は飽きさせることがない。雪が降っていないのは惜しいが、青白く照らされた街並みはどこか幻想的な雰囲気を醸し出して、無条件に幸せになることを保証してくれているかのようだった。ぼんやりとその景色を眺めながら、そもそも他人を求めた理由は一体なんなのだろうと思った。あらゆることに言語化不能な理由が求められるべきだというのなら、孤独の解消にも矛先は向けなければいけない。乏しい経験をもとに記憶を模索したが、納得のいく答えは得られそうにもない。他人を求める根底は、突き詰めれば自分勝手なものになってくるのだろうが、性愛などの身体性に求められるようなタチでもない。効率化などと無機質な類ではない。肯定されたいわけでも、癒されたいわけでもない。自己承認欲求の類ではない。
テーブルに置かれた珈琲をマドラーで掻き混ぜて、漂う湯気を目で追いながら、手元のスマートフォンを所在なく操作した。ネットの海が何か答えてくれると期待でもしたのだろうか。どれだけスクロールしても、自分とは関係のない言葉ばかりが目に映るだけだった。景色を見下ろし行き交う人々に目を配るも、訴えてくるものはなかった。思えば、映画、小説、エッセイ、漫画、学術書自己啓発本も、何かが、誰かがこの疑問に答えを与えてくれるのではないかと期待して手を伸ばしているのではなかろうか。しかし、そこで得られた答えに安心したくないとも考えている。馬鹿げたいたちごっこを続けたことに苦笑した。煙草を箱から取り出し火をつけて、淀んだ空気を一緒に飲み込んだ。いくつもの吸い殻の上に灰を落として、何か閃かないかと思案した。つまらないことばかりが浮かんでは消え、生産性が得られる気配はどこにもなかった。立ち篭める煙は不規則に揺らいで、意味ありげに視界を彷徨い続けた。店内に流れるクリスマスソングはどこまでも幸せを歌い上げて、僕はいつまでも席から立ち上がれずにいた。

アンドロイドは経済動物の夢を見るのか。

経済動物(けいざいどうぶつ)は、その飼育が、畜主の経済行為として行われる動物の総称。 ただし呼び方としては、家畜・家禽(鶏のみを指す場合)の方がより一般的であり、これに対する名称及び存在が愛玩動物(ペット)である。(Wikipediaより)

 


人類の生存に必要な食糧として、家畜として生活を管理され殺される為だけに生かされる存在である。この遣る瀬なさの根底には、受益者ではない存在が対価を支払わなければならない身勝手さがある。

この現象の哀れみを描いた「銀の匙」では、さらにこの関係性を人間同士にも当てはめようとしてみせた。家畜−人間の関係性に限定せず、人間−人間にも当てはめることができてしまう、その残酷性について。

拡張性を許せば、多くの事象に当てはめることができるのだろう。自身のために他人を踏み躙り、そのことに無自覚にすらなってしまっているのかもしれない。

しかしどれだけ犠牲を哀れんだところで、家畜(豚)は自身の環境が劣っていようともその環境を甘んじて享受してしまう習性を有してしまっているし、その境遇に気付きもしないのだ。しかしどれだけ犠牲を哀れんだところで、結局殺すことには変わりないのだ。

映画「 Little Forest」に、「他人に殺させといて、殺し方に文句つけるような、そんな人生は送りたくないなって思ったよ」なる台詞が存在した。であれば殺した当人が同情することは許されるのか。

 


このことを考えた時、少なくとも自分が殺してしまったものをキチンと見つめるべきなのだろうと思った。自分が絞めた首の持ち主を、その生暖かい感触を、確かに覚えておくべきなのだ。

 


ます思いついてしまったのが、今の自分の職業であった。

人材派遣事業を営む企業に身を置くものとして、求人者のために就業環境を案内することが使命にある。

彼らが戦うフィールドは彼らが望んだ世界である。

果たして彼らを望むような業務内容に就かせているのだろうか、ましてや将来性にわずかでも繋がりうる業務内容に就かせているだろうか。そのどっちだって有しておらず、俺はただただ彼らを文字通り犠牲にしてしまっているのではなかろうか。

そんな後ろめたさを感じながらも、それでも彼らが満足を覚えてしまっている。

役者数の限られた舞台を諦めず、挑戦の切符を得たいと願った彼らを羨ましくなる反面、満足を覚えた豚に成り下がった彼らに軽蔑すら覚える。

 


一方的にも罪悪感を覚えている自分を正しく裁き、非難の声を上げられることを心のどこかで望んでいるのかもしれない、本当に身勝手で傲慢なな話だ。

 


彼らを殺したのであれば、彼らの屍の上に立っているのは養豚所に追いやった自分なのだ。屍の上に立ってまで、自分は一体何を得たのだろうか。

何かの犠牲の上に何かを手にできるが等価交換こそが世の真理であるのならば、犠牲の先には必ず何かを手にできるはずなのだ。何かを手にしていなければいけないはずなのだ。それがたとえ、犠牲を払うものと対価を得るものが異なっていようとも、少なくともゼロサムでなければいけないのだ。対価があるのならば、それがどれだけ後ろめたくとも、受け取らなければならないのだ。

 


犠牲になるのが他人であれば尚のこと、であれば対価を払うのが自分であればどうなのだろう。

自分は誰かにとっての家畜になれているのなら救いがあるように感じられる。26年間というまだ長くもない人生の中で、時間や資金、労力や才能、信用や信頼、ありとあらゆるものを差し出してきたように思う。犠牲の数が構成している、そんな自分を肯定できないのはおこがましい話にも思えるが、犠牲にした先に現在の自分があると思うと直視から逃れようとする。なぜならそれは自分の不甲斐なさと無力さを認めてしまうことに繋がりかねないと直感的に感じているから。上手に肯定できるだけの器用さや逞しさが妬ましい。

無碍に否定してしまうことの方が楽だから、逃げているだけなのかもしれない。

きっと綺麗な言葉やおざなりな台詞を並べて悦に浸ることだってできるのだろう。無視してスルーできる図太さを持ってた方がいくらか生きやすいのだろう。

でもきっとどこまでいっても罪悪感は消えないのだろう。

不自由であることと不幸なことはイコールじゃない。哀れに思われる言われはないよ。

冒頭の言葉は「鋼の錬金術師」から。だけれどここで記述したいのは「聲の形」という漫画について。

 

聴覚障がい児童であったヒロインと、異物という刺激的なコンテンツとしてイジメを愉しんだ主人公。

その過去を後悔し、また自身の存在の価値を低俗なものと当てはめ、懺悔の心で臨んだ後ろ向きな贖罪行為を重ねる中で、良くも悪くも再び過去との繋がりを意識し、そして自壊の道を歩んでしまう。

崩壊の道筋を築いてしまったのはあくまで自分なのだと、ヒロインも自身の存在意義を文字通り問い直してしまい、自殺の解答を導き出そうとした。

何もかもが破滅の道筋を描いた中で、主人公は手を伸ばし、本当に目指したかった理想とは何か、改めて導き出す。

 

ネタバレを控えて抽象表現で要点をまとめると上記のようになる。

 

作者は以下のように語っている。

「『いじめがテーマ』とシンプルに語られることに、少し違和感を覚えているところはあります。

自分としては、『いじめ』や『聴覚障害』を主題に置いたつもりはなくて、『人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ』を描こうとした作品です。だから『聲の形』というタイトルにしても、『コミュニケーションそのものを描いた作品』なんだよと、という想いを込めています。硝子の耳が聞こえないのは、あくまで彼女を構成するものの一つでしかないです(中略)」

講談社大今良時 著「聲の形 公式ファンブック」p 170

あくまでコミュニケーションの物語で、伝達事項やその手法の齟齬が生んだ悲劇であると語っている。

「硝子は自分のせいで壊したものを、ずっとカウントしています。

自分のせいで親が離婚した。自分のせいで妹がいじめられた。自分のせいでクラスの雰囲気が悪くなった。自分のせいで佐原さんも学校に来なくなった。

ぼんやりと『死にたい』と考えながら、そのカウントを積み重ねていたんです。筆談ノートを失ったすべてを諦めることで、それが消えたのではなく、ずっと胸の内にしまい込んでいただけで『いつかは死ぬんだろうな』と思い続けていました。

そうして将也と再会するわけですが、やっぱり彼と友達の関係を自分が壊してしまい、カウントと死への想いが蘇り、橋の上で『やっぱり死のう』と決断してしまう。」

講談社大今良時 著「聲の形 公式ファンブック」p 176

死を希求しなければいけない動力源足り得てしまったのは、イジメという曖昧な暴力ではなく、ましてや障がいを抱えたそのもののハードルではなく、あくまで自身が大切に願うものを自身が傷付けてしまうことの罪悪感にあったと述べる。

 

彼ら彼女らはどのようにすれば悲劇を回避することができたのだろうか。

「あんたは5年前も今も変わらず、私と話す気がないのよ」(講談社大今良時 著「聲の形」4巻,p68

描きたかったものがコミュニケーションにあるのならば、コミュニケーションを真っ当に図れれば彼ら彼女らは望むものを手に入れられただろうか。

おそらくそれは難しかったのではないだろうか。何故なら彼ら彼女らはコミュニケーションを、あくまで連帯感を機能させるための道具と誤認したからだ。綺麗事やお約束で装飾されたその空間は、確かに一見美しいだろうがひどく脆い。単なる連帯感には持続性を求められないからこそ、彼らは彼女らは離れ、悲劇が生じたのだ。

 

エンディング間際の、それぞれのコンプレックスについて語る46−51話の中にヒントがある。彼ら彼女らにはそれぞれにお互いが分かり合えない弱さを抱えていることが紹介されている。自己解決できず、同時に無視することも自らに許すことができない種類のもので、彼ら彼女らがどのうようにしてそれに立ち向かうかが描かれている。それらを新たに土台としてコミュニケーションを果たさなければ、完結へ導けないからこそ、作者は挿入したのだ。コンプレックスはコミュニケーションに不可避の要素と捉えていることが分かる。

 

作者が主張したかったものは、互いに理解できない他人や、あるいは認められない自分自身との溝をなぞり、許容することの重要性だ。コミュケーションは連帯感の強さのための道具ではなく、弱さを引き受けるための道具なのだと、一連の物語は訴えているのだ。

それは押し付けがましい綺麗事が付け入る隙なぞなく、ともすれば悍ましいエゴを、生々しく告白することでしか生まれない。

自己嫌悪に連なった自身の姿形をありのまま見せつけ、その上でどうしようない自身がなにを望んでいるのか、嘘っぱちの言葉を一切挟まずに、赤裸々にぶつけたからこそ、エンディングを迎えられたのだ。非常に醜く苦しい行為の中で踠くことでしか、自身の居場所を確保できないという、ある意味最も残酷な答えを作者は提示した。

 

コンプレックスを抱いていることは間違いなく不自由なのだろう。でもそれは不幸には直結はできないはずだと言う結論と、またそうであってほしいというすがりたい気持ちも込めて、タイトルを付けた。

仮定法過去の亡霊

「僕は考えた。
ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。
(中略)
直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
 
 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。
その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。」

 

 

第一次結婚ラッシュが周囲にもとうとう訪れたのか、結婚を考えてるだの将来的には〜だのの話題が多くなり始めた。

結婚には親からも諦められていることもあり、特別焦りはないのだけれど、ひとつ「ふむふむ」という妙な感慨深さを覚える程度には、25歳という数値を見つめる意識はある。


アラサーと呼ばれる世代に突入する自分の年齢に正面から向かい合うタイミングに直面している。


やれやれ、25歳とは参ったぜ。
そこで冒頭のくだりに戻る。
上記の言葉は、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」から。


内容に対する言及は他の機会に預けよう。
「人生とはやり直しのきかない、一回っきりの選択の連続だ」
それを主題に据えておきたい。

 

「何者」という朝井リョウ直木賞受賞作がある。就活を背景に自身の曖昧さの隠れ蓑に批評家気取りを姿勢としてとる愚かさを曝け出される様子を描いたものだ。
何者にもなれず、何者からも逃れんとする思春期と大人の過程の気難しさは誰しも経験したことからこそ、普遍的に突き刺さる内容だ。


しかし年齢を経ることに、性別、経歴、学歴、職業、技能、年収、交際関係。様々な事に自身が何者であるか規定される傾向が強くなる。


結局は積み重ねこそが自身を物語るのだと、逃げ道は徐々に狭まりつつある息苦しさをどこかで諦観が覗かせる。


若さから自由に戸惑いを覚えたものの、時間から自由に遠い羨望を覚える。
そんな皮肉を、冒頭の台詞はよく表している。
このリミットが35歳だとあるが、今そこから10年若い25歳という年齢の自分にも何処か感ずることがある。

 

おそらく今の時期であっても事実上諦めざるをえない可能性や選択肢もあるだろう。

例えば、オリンピックを飾る選手一団には加われないだろうし、子供の憧れと喝采の的であるプロ野球選手にもなれないだろう。


そんな極端な例でなくとも、子供の頃の憧れであったクリエイター業には、芸術大学の出身でもなく特別な訓練もしていない現状では難しいだろう。
趣味止まりに違いない。


では別の可能性を選んだ現状に満足しているかといえば、そうではない。
営業には相変わらず興味がないし、アポイントの電話掛けは苦手だし、企業体制にはうんざりしている。
だからといって、他にやりたいことがあるかと問われれば窮してしまう。
一定の貯金を下に退職を、と友人には謳っているが、それも現状からも未来からも逃げているに過ぎない。


しかし人材業界に身を置くものとして、「年齢」と「可能性の狭まり」の比例関係を無視することはできない。
評価は他者が下すものだ、年齢は他者からの「期待」とも換言できる。
自身が歩んだ経験を専門性に昇華できない限り、求職者に紹介できる職場は少なくなることを、日々の業務で嫌という程目にしてきた。


社会人となった今でも迷路から抜け出せずにいるものの、期限と可能性はだんだんと狭まりつつあるのを、背後に感じている。

仮定の人生を現実の未来に変化できる可能性は狭まりつつある。
しかし、仮定の人生を手に取って確かめられる実態が自分の掌にあるともどうにも思えない。
実力、ポテンシャル、過去の実績、自信、意欲。
その全てが否定にかけられる。

仮定にかけられるほど、僕の経歴は重くはない。


では残されたものは何であろう。

 


人生を豊かにするものは趣味だという。趣味を生活の糧にするか否かは置いておこう。
しかし、没頭できるものがなにか1つでもあれば、それを丁寧になぞりたいと思う。


そう思う25歳の最期の週。
来週には26歳の自分が待っている。
35歳の自分が後悔していないことを願いながら。

 

 

 

自己療法的自己満足

迷いと決断というなれば、まだ自分の中でそれは訪れてはいない。

だけれど、いよいよ逃げていけないのではないかという後悔と反省を含めて、自身の背中を押すものとして、

或いは自己療法の一種として、この告白文こそが転機として機能するものとして、

できるだけ正直に書ければ良いと考えている。

 

ーーーーーーーー

 

自分は履歴書だけ見れば真っ当な人生を歩んでいるように思う。

進学校とされる高校に進み、予備校を挟みながらも潰しが効く大学へ身を置き、就職を果たした。

それぞれで程々の成績を残しながら、多少問題こそあれど、後ろ指で指されるようなルートではなかったように思う。

 

しかしながらその擬態は違和感なく効能しているわけではなく、随所に毒として効能することとなる。

 

ーーーーーーーー

 

最初に現れたのは高校三年生の冬だ。大学受験を控えセンター試験の過去問を解く毎日を送っていた冬休みの中、唐突に死にたさに襲われた。

空気を吸うことを喉元が拒否し常に喘息のような息苦しさを覚えていたし、精神的にも、罪悪感と劣等感、後悔や懺悔など、

ネガティブな感情に支配されていた。解決の糸口すら見つからず、ただ時間が解決してくれることを祈り続けた。

専門的な機関にかかれば鬱病の診断を受けていたことだろう、

しかしながら実家を出ていない身の上から、家族の価値観にはどこまでも隷属的で、それは鬱病=怠慢の印を押すものだったし、

また他人に対して疑心暗鬼となっていたため、その選択を選択肢として見据えることは今考えてもできなかっただろう。

結局その死への強迫観念への処理に一年半費やすこととなった。

この出来事は、自身の汚点として鍵をし二度と開けまいとしまいこんだ。

 

その蓋を開けたのは4年後となった。

大学の卒業を控え、就活の期間に迫った際に上記のことをあえて振り返ろうと考えた。

モラトリアムから脱却し社会人へと歩を進めた途上で再発した際に自身のキャリアを傷つけるものとして立ちはだかること、

それに対して正しい処理を身につけなければ今度こそ死を選んでしまいかねないこと。

何より、死を希求しなくてはならないほど自身が拘りたいポイン トがそこにあるのだろうという確信があった。

原因の究明と解決の為に半年間の留年を選択した。

 

 

自分の父親は転勤族と呼ばれる類の職業の人間だった。

父親の転勤異動はすなわち自身の転校、転居、環境の変化がもれなく付いてきた。最初の転勤は物心付く前から発生しており、それは中学2年生まで止めることなく続いた。

環境は常に変更され、また物理的な距離に隔たれることにより、-…携帯電話もパソコンも与えられるものではなかったから、ゼロに戻ることとなった。

自身の馴染みのある環境は次々と自身の手元から離れていく、それが常なのだと幼少の頃より学習せざるを得なかった。

そう強く意識させられたのは、7年間生活を共にし永遠と続くだろうと盲信し、転校の可能性を忘れ油断していた小学6年生の夏休みの頃だった。

 

常に変化する環境へ固執することは、いつか訪れる別れへの悲しみへ繋がる。

そのことを経験から学び過ぎた自分は、回避する為にも好意を示すことへの抵抗や反発の中で行動することとなった。

常に距離を置いて、いつでも離れられるよう準備を無意識の中で徹底した。

結果、精神的孤立を深めていった。同時にそれは自身のストレートな感情に靄を生じさせることとなた。

 

その靄は常に自身の行為へブレーキとして存在感を発揮させることとなった。

生来の不器用さや臆病さも相まって、常に理由の中継点を必要とさせた。自身の感情を肯定することを控えた。

好意を向ける恋人や友人へも影響し、信頼というよりは依存に近いもので繋がらざるを得なかった。様々な迷惑をかけたと思う、

結果、何も築けなかった経歴だけが刻み込まれた。

 

その空虚さへの後悔が逆襲したのだ、それが当時の結論だった。

空虚さから目を背け、形だけ整えよううと逃避した自身への罰が下ったのだ。

自分は何事へも繋がれず、誰からも繋がれず、何者にも紡ぐことができなかった、その空虚さの後悔こそが死にたさの正体だったのだ、そう考えた。

なるべく素直に自分自身を生きてあげようというのが、その時の結論だった。

 

そうして、また自分自身へ嘘をつくことになる。

 

大学を卒業して社会人となり、営業職として身を置くこととなる。

会社として問題を抱えながらも、もっともらしい理由を拵えて、それなりな成績を収めながら、この2年間所属してきた。

様々な失敗を経てはきたが、取り返しがつくかつかないか分からない程度の失敗に向き合わなければならない場面へ辿り着いてしまった。

数字への目的意識や責任、他者への訴求力、自己顕示力や承認欲求、そのギャップを意識する劣等感、

手を変え品を変えその言葉を浴びせられたが、気づいたことは何一つとして自分の中で響かない事実だった。

感情が鈍化してることに気がついた。

 

ーーーーーーーー

 

理想と現実という言葉を小学校時代、習字の課題として掲げられたことをよく思い出す。

理想、こうなりたいという希望と、現実、そうではない事実。

どうしようもない現実の辛酸を舐めてでも、理想を想い続けろと言われている気がして、なんて残酷なことをするのだろうと思った。

 

ーーーーーーーー

 

理由の動機付けを求めて、いわば言い訳のように前置きをするのではなく、

ただ裸の感情だけで動き出せるものことこそが、本当に尊い

 

今にして、理由を置き去りに強く直感していることがある。ただ、素直に生きることだけではない。

許されたいのだ、僕は。僕自身が、環境から。

受け入れられたいのだ。居場所が欲しいと痛々しくも荒々しく叫び出したい、

それを許容してくれるものを理想として探しているのだ。

 

素直になれた数少ないことが、絵を描くことと、文章を書くことだった。

唯一と言っていいのかもしれない。個人技という裏切らないこととして肌身離さず温めてきた。

密かな自己表現を通じて、環境との接触を果たしたいと縋ってきた。

 

露を取り払った感情の吐露に今でも抵抗感を覚える自分がいる。

この文章を書くのが辛かった、素直になるのが苦痛だった。

だけれど、この文章がどこかへ連れて行ってくれると信じていたい。

理想と現実の隔たりを感じたときに、迷いがあるのだと思う。

現状を把握してなお、希望を想えることが、決断なのだと思う。

僕の場合それを繋げてくれるのは、ただ唯一の好きを続けてこれた文章を書くことであり、絵を描くことなのだろう。

この文章を書くこと、その行為自体が自分の中の迷いとその決断だ。

 

今は被害者ヅラした醜い独り善がりをどうか許してほしい。

そして願わくば、自分自身が何かにとってそうであったように、誰かのの背中を押すもの、

居場所を与えるもの、寄り添うもの、そうした存在の創出に自分の人生を賭したい、今度は嘘をつくことなく、正直に。

 

 

夫のちんぽが入らない/コンビニ人間の書評。

この二つを読んだ時、かつての村上春樹江國香織吉本ばなな

歴史を辿れば夏目漱石太宰治に希求された役割を現代で再現しているように感じた。

 


共通項は自己肯定感があまりにも低いということだ。

自己評価が著しく低い私を示すがために、相対的に「全体的」「普通」「常識的」と言った外部評価が上層構造に位置を占める。自己評価が低い彼ら彼女らは自身の正しさを打ち立てることができないがために、「普通」や「常識」という上部構造に正しさを求め、また敗戦の歴史を積み上げ、その重みに苦しみ続けてしまう。

 


時代や環境によって姿カタチを変える「普通」や「常識的」に、一貫性や論拠を求めるのは無謀であり、その都度空気を読みあうと言ったローカルルールの理不尽に縛られ続ける。

結果、劣勢に常に晒され続ける彼ら彼女らは、羞恥心や申し訳なさ、罪悪感と言った感情から逃れられない。

自身の存在に対してネガティブな評価しか定めることができない彼女らに立ちはだかる「常識的」や「普通」の無遠慮な暴力は、簡単に彼ら彼女らを壊していく。

理不尽に姿かたちを変え続けていく化け物に対し、時代時間に最適化するように物語は生産されていく。マジョリティとマイノリティの二項対立は普遍的に存在し続ける。

 


それを代弁するために、形ある公的な領域と私的な領域の構造を取りながら描いてきた。公的な領域の代表として描かれてきたのが、国家であり、政府であり、企業であった。時代性を敏感に読み取り、分かりやすい大きな枠組みへの異議申し立てといった構造へ当てはめやすかったというのが、大きな理由だろう。しかし複雑化する現代の中で、はたして政府を悪と捉えれば解決するのか、また企業を悪と捉えれば満足するのか、そこには疑問が残ってしまう。私的な領域を描く為に、公的な領域の中で物語ることはもはや難しい。

 


そのため、相対化を許すことなくあくまで私的な領域に留まり描き切ることが重要とされる。本屋で再度平積みとなる太宰治夏目漱石といった私小説の作家陣が再評価されているのは、そういった理由なのだろう。

体系的に読み上げているわけではないが、現代作家で言えば、村上春樹吉本ばなな江國香織が当てはまる気がしている。

 


自己肯定の構成要素として、他者評価の他に、自己満足の割合を一定数確保するべきなのだ、自身の納得に一定自身を委ねる傲慢さを許容すべきなのだ。そのバランスを自身の最適に調整すべきなのだろう。自己満足と他己評価との衝突と微調整が生涯かけて学ぶべきテーマなのだろう。

 


夏目漱石太宰治は現代までの消費期限が充分といえず、村上春樹は公的な領域への侵食を進め、吉本ばななは自己満足の領域の拡大に歯止めが効かなくなり、江國香織自家中毒に陥ることとなった。結果として、純粋に私的な領域を私的な領域のままあくまで社会に留まることを目指した枠が空席となった。

 


自己満足と他己評価のバランスの難しさを描き切ることは難しい。だけれど、絶妙な力加減を問われるこの役割を全うするほど、美しいものはないと思う。ポップな作風ではあるが、この2つの作品にはその可能性を感じることができた。そんな気がする。