アンドロイドは経済動物の夢を見るのか。
経済動物(けいざいどうぶつ)は、その飼育が、畜主の経済行為として行われる動物の総称。 ただし呼び方としては、家畜・家禽(鶏のみを指す場合)の方がより一般的であり、これに対する名称及び存在が愛玩動物(ペット)である。(Wikipediaより)
人類の生存に必要な食糧として、家畜として生活を管理され殺される為だけに生かされる存在である。この遣る瀬なさの根底には、受益者ではない存在が対価を支払わなければならない身勝手さがある。
この現象の哀れみを描いた「銀の匙」では、さらにこの関係性を人間同士にも当てはめようとしてみせた。家畜−人間の関係性に限定せず、人間−人間にも当てはめることができてしまう、その残酷性について。
拡張性を許せば、多くの事象に当てはめることができるのだろう。自身のために他人を踏み躙り、そのことに無自覚にすらなってしまっているのかもしれない。
しかしどれだけ犠牲を哀れんだところで、家畜(豚)は自身の環境が劣っていようともその環境を甘んじて享受してしまう習性を有してしまっているし、その境遇に気付きもしないのだ。しかしどれだけ犠牲を哀れんだところで、結局殺すことには変わりないのだ。
映画「 Little Forest」に、「他人に殺させといて、殺し方に文句つけるような、そんな人生は送りたくないなって思ったよ」なる台詞が存在した。であれば殺した当人が同情することは許されるのか。
このことを考えた時、少なくとも自分が殺してしまったものをキチンと見つめるべきなのだろうと思った。自分が絞めた首の持ち主を、その生暖かい感触を、確かに覚えておくべきなのだ。
ます思いついてしまったのが、今の自分の職業であった。
人材派遣事業を営む企業に身を置くものとして、求人者のために就業環境を案内することが使命にある。
彼らが戦うフィールドは彼らが望んだ世界である。
果たして彼らを望むような業務内容に就かせているのだろうか、ましてや将来性にわずかでも繋がりうる業務内容に就かせているだろうか。そのどっちだって有しておらず、俺はただただ彼らを文字通り犠牲にしてしまっているのではなかろうか。
そんな後ろめたさを感じながらも、それでも彼らが満足を覚えてしまっている。
役者数の限られた舞台を諦めず、挑戦の切符を得たいと願った彼らを羨ましくなる反面、満足を覚えた豚に成り下がった彼らに軽蔑すら覚える。
一方的にも罪悪感を覚えている自分を正しく裁き、非難の声を上げられることを心のどこかで望んでいるのかもしれない、本当に身勝手で傲慢なな話だ。
彼らを殺したのであれば、彼らの屍の上に立っているのは養豚所に追いやった自分なのだ。屍の上に立ってまで、自分は一体何を得たのだろうか。
何かの犠牲の上に何かを手にできるが等価交換こそが世の真理であるのならば、犠牲の先には必ず何かを手にできるはずなのだ。何かを手にしていなければいけないはずなのだ。それがたとえ、犠牲を払うものと対価を得るものが異なっていようとも、少なくともゼロサムでなければいけないのだ。対価があるのならば、それがどれだけ後ろめたくとも、受け取らなければならないのだ。
犠牲になるのが他人であれば尚のこと、であれば対価を払うのが自分であればどうなのだろう。
自分は誰かにとっての家畜になれているのなら救いがあるように感じられる。26年間というまだ長くもない人生の中で、時間や資金、労力や才能、信用や信頼、ありとあらゆるものを差し出してきたように思う。犠牲の数が構成している、そんな自分を肯定できないのはおこがましい話にも思えるが、犠牲にした先に現在の自分があると思うと直視から逃れようとする。なぜならそれは自分の不甲斐なさと無力さを認めてしまうことに繋がりかねないと直感的に感じているから。上手に肯定できるだけの器用さや逞しさが妬ましい。
無碍に否定してしまうことの方が楽だから、逃げているだけなのかもしれない。
きっと綺麗な言葉やおざなりな台詞を並べて悦に浸ることだってできるのだろう。無視してスルーできる図太さを持ってた方がいくらか生きやすいのだろう。
でもきっとどこまでいっても罪悪感は消えないのだろう。